CBC web | 中部日本放送株式会社 / CBCテレビ / CBCラジオ

MENU

移転を検討、ナゴヤ球場の歴史を振り返る

移転を検討、ナゴヤ球場の歴史を振り返る

6日に開催された中日ドラゴンズの年賀式で、吉川克也球団社長は「2軍施設であるナゴヤ球場の移転を検討している」と明らかにしました。移転先や完成時期などは未定ですが、吉川社長は「老朽化に伴い、移転の話を本社と進めている。早いうちに大枠を固めて発表できればと考えている」と話しました。1月15日放送『CBCラジオ #プラス!』では、球場近くで生まれ育ったというジャーナリストの北辻利寿さんが、あらためてナゴヤ球場の70年以上にわたる歴史について解説しました。聞き手は永岡歩アナウンサーと三浦優奈です。

関連リンク

この記事をradiko(ラジコ)で聴く

たった2か月で球場が完成

中日ドラゴンズは当初、本拠地の球場を持っていなかったため、各地の球場を転々として試合をしていましたが、翌年から本拠地を地域ごとに置くこととなり、慌てて球場を作ることとなりました。

現在のJR東海道本線の尾頭橋駅の近くにあった空襲で消失した跡地に、わずか2ヶ月という突貫工事で木造のスタンドを持つスタジアムが完成。
当時は「中日スタヂアム」(通称・中日球場)という名前でした。

最初は1軍と2軍の本拠地だったため、昼は2軍のデーゲーム、夜は1軍のナイターを開催したこともあったそうです。

また、大阪に本拠地のあった近鉄バファローズ、現在のオリックス・バファローズが準本拠地として年に数回試合をしていました。

近鉄は大阪と名古屋を結ぶ電車を走らせているので、ある意味納得ですね。

大規模な火災が発生

その球場も完成してわずか数年後の1951年(昭和26年)、読売ジャイアンツとの試合中に内野席あたりから出火し、強風にあおられて木造のスタンドのため一気に火が燃え広がり、3名の方が死亡、300名ほどが重軽傷を負う大惨事となりました。

原因はタバコの不始末といわれていますが、この時スタンドの中には、小学生の高木守道元ドラゴンズ監督がいたそうです。

その後、翌年に鉄筋コンクリート造の新スタンドが再建しました。

球団運営をしていた会社が倒産し、地元大手企業の出資によって現在の「ナゴヤ球場」という名前になったのが1973年(昭和48年)で、現在まで続きます。

ナゴヤ球場の伝説

放送日である1月15日はドラゴンズの創立記念日。
ナゴヤ球場はドラゴンズの誕生からさまざまなドラマを生み出してきました。

杉下茂さんが活躍した1954年(昭和29年)には初の日本一となり、1974年(昭和49年)に巨人の優勝をV9で止めたり、高卒ルーキーの近藤真市投手がプロ初登板でノーヒットノーランを達成。

1994年(平成6年)に、最終戦で巨人との直接対決で優勝が決まるという伝説の「10.8決戦」が行なわれたのもこのナゴヤ球場でした。

また、ナゴヤ球場は野球の試合以外でも使用されました。
北辻さんが印象に残っているのは沢田研二さんのコンサート。
野外球場のため、近くに住んでいると演奏がすべて聴こえる状況でした。

やがて球場近くにどんどんマンションなどが建設されると、騒音が問題視されるようになり音楽系のイベントは開かれなくなったそうです。

なお、最後にナゴヤ球場でコンサートを行なったのはサザンオールスターズでした。

他の2軍球場も移転

多くの人の思い出を作ってきたナゴヤ球場。
改修を重ねてきたものの、老朽化により移転が検討されているということです。

移転は球場だけではなく屋内練習場や選手の寮も対象となるため、一体となって移転されることになりますので、新しいドラゴンズタウンができるといえます。

他球団の2軍球場も続々と移転しています。
例えば阪神タイガースは甲子園球場と同じ西宮市に鳴尾浜球場がありましたが、尼崎に移転されます。

北辻さんは「プロ野球が長い歴史を迎える中で節目が来た」とまとめました。
(岡本)
 

この記事の画像を見る

オススメ関連コンテンツ

PAGE TOP