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小学校の運動会は「午前だけ」の時代~姿を消した“風景”を書き残してみた

小学校の運動会は「午前だけ」の時代~姿を消した“風景”を書き残してみた
CBCテレビ:画像『写真AC』より「組体操『サボテン』」

これも時代による変化なのだろう。運動会を“半日”すなわち午前中だけで開催する小学校が圧倒的に増えた。もともとは新型コロナウイルスの感染拡大がきっかけとも見られているが、熱中症の予防や教員の働き方改革など、複数の要因も重なって、小学校の運動会は「午前だけ」がほぼ主流になっている。「お弁当を作らなくていい」と家庭の負担も軽減されて好評という。学校行事の一大イベントでもある「運動会」も大きく様変わりした。

日本での「運動会」の歩み

「運動会」はもともとヨーロッパの体育行事が起源とも言われる。日本には、明治維新の後、1872年(明治5年)からの近代学校制度と共に導入された。日本初の運動会は、1874年(明治7年)に海軍の兵学校で開催されたという説が有力である。この内、小学校の運動会は、これも学校行事としては欠かせない遠足を兼ねて、当初は海や河原などで行っていたそうだが、やがて、大正時代に校庭での開催になっていった歩みがある。

「運動会」は丸一日だった

昭和40年代の小学校の運動会の記憶をたどる。開催は10月だった。天候が安定している時期であると共に、1964年(昭和39年)最初の東京オリンピック開会日に合わせてできた「体育の日」という祝日がある、そのタイミングだったことも大きかったのだろう。そんな秋の一日、現在とは違って、運動会は、朝から午後3時くらいまでの“丸一日”でのフル開催だった。

予行練習の日々

学校では、運動会が開催される1週間ほど前から「予行練習」があった。入場行進や綱引きなど集団の競技について学年ごとに練習し、開催が近づくと、本番さながらのリハーサルが、全校児童が参加して行われた。運動会当日には、地元の来賓やPTA役員、そして家族ら大勢の人が訪れる。学校として「運動会」という一大イベントを“そつなく”“滞りなく”“無事に”完遂するためだったのだろう。本番の前日には、授業も午前中のみの半日で終わり、上級生の体育委員らが、先生の指導の下で、グラウンドに白線を引いたり、テントを設営したりした。今思えば、先生たちも大変な労力だったことだろう。

家族と一緒に昼食も

CBCテレビ:画像『写真AC』より「運動会風景」

運動会当日は、教室でのホームルームの後、それぞれが教室で座っている椅子をグラウンドに運んだ。トラックを取り囲むように、各学年と各クラスのエリアが決まっていて、そこに椅子を置いて運動会に臨んだ。児童たちの後ろは、応援にやって来た親たちの立ち見スペースだった。愛知県名古屋市の場合、運動会は平日の開催だったが、給食はなく弁当を持参した。家族が来校していた場合は、昼食時間、一緒に校庭などで食べることが認められていて、何だか“特別な日”という空気感だった。

「玉入れ」の玉は手作り

競技についての思い出では、低学年で参加した「玉入れ」の玉が思い浮かぶ。赤と白、2つのチームに分かれて、棒の先に付けられた籠(かご)に玉を投げ入れて、最終的に入った数を競う。この玉は、それぞれが家庭で作ってもらい、2個ずつを持参した。布袋の中に小豆や大豆などを入れて縫い合わせる。しかし、大きさの基準などが曖昧だったためか、それぞれが持参した玉の大きさがバラバラだった記憶がある。投げている間に、糸がほどけて豆が飛び散ったこともあった。手作りならでは、何とも微笑ましい思い出かもしれない。

姿を消した競技「騎馬戦」

CBCテレビ:画像『写真AC』より「騎馬戦」

運動会は全校の児童や生徒が参加しての一大イベントだったため、上級生の活躍には目を見張った。特に中学校時代、下級生の立場として、最上級生が全員参加しての「騎馬戦」は見応えがあった。3人が“馬”を作り、その上に1人が乗り、4人1組で「騎馬」を作って相手の帽子を奪い合うのだが、実に迫力ある競技だった。スケジュールでも午後のメインどころに置かれていた。そんな「騎馬戦」も現在では、競技メニューから姿を消した。「危険なため」というのが理由だが、「棒倒し」や「組み体操」も同じらしい。最近では、運動会発祥の時代からずっと行われてきた「徒競走」も、次第になくなっているようだ。こちらの理由は「勝ち負けで優劣をつけないため」。全体に「勝ち負け」がつかないように、運動会自体を赤白で対抗するのは廃止する動きもあるという。時代は変わった。

大切なコミュニケーションの場

こうした学校での運動会の他に、地域の子供会による運動会、さらに、町内にあった企業や工場の運動会など、昭和の時代は、年に何回も「運動会」が開催されていた。特に工場の運動会などは親子三代での参加もあって、賞品も豪華だった。昼食は持参ではなく、仕出しの割子弁当が振る舞われた。高度成長期、人が集まってスポーツを楽しむ、そして、人と人とがコミュニケーションを結ぶ、そんな機会が「運動会」だったのだろう。

時代と共に、様々なものの価値観も変わり、役目も変わる。人の受け止め方も変わる。「運動会」はこれから、どんな変化を遂げていくのだろうか。

          
【東西南北論説風(497)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※『北辻利寿のニッポン記憶遺産』
昭和、平成、令和と時代が移りゆく中で、姿を消したもの、数が少なくなったもの、形を変えたもの、でも、心に留めておきたいものを、独自の視点で「ニッポン記憶遺産」として紹介するコラムです。

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