オルゴールはじめて物語~その音色は諏訪湖畔から世界へと奏でられる~
初めて手元に持った「オルゴール」は、小さなねじ巻き式のものだった。箱のふたを開けると流れるメロディは『エリーゼのために』だった。ベートーベンの曲に親しんでいくきっかけにもなったオルゴール、今も机の奥に大切に仕舞ってある。オルゴールは奏でる曲によって、多くの人に郷愁と癒しを運んでくれる。
オルゴールの起源は、14世紀ごろ中世ヨーロッパのカリヨンと言われている。音が違う複数の鐘の音でメロディを奏でて、街中に時を知らせていた。当時はそんな時計の一部だった。その“自動演奏の装置”だけを時計から切り離したのは、スイスのジュネーブにいた時計職人アントワーヌ・ファーブルである。懐中時計の中に薄い鋼鉄の板を並べて音楽が出る細工をしていたのだが、その部分だけを独立させた。18世紀末、世界初となる「オルゴール」の誕生だった。
太平洋戦争が終わった翌年、1946年(昭和21年)に長野県の諏訪に創業した三協精機製作所。時計の部品などを製造するこの精密機械メーカーに、GHQから通産省を通して「日本でオルゴールを作りませんか?」と打診があった。身近に置いて気軽にいつでも音楽を聴くことができるオルゴールは、戦争で傷ついた人々の心に潤いを与える期待もあった。湖畔にある諏訪の町は空気が澄んでいて水もきれい、その気候から「東洋のスイス」と呼ばれていた。スイス生まれのオルゴールを日本で製造するには最適な環境だった。
ここで当時の主流だったシリンダーのオルゴールの構造について紹介する。「ドラム」と「振動板」の2つの部品が中心で、丸い円筒型のドラムが回転すると、表面にあるピンが振動板を弾く。それによって、ピアノで言えば弦にあたる振動板の櫛(くし)状の歯から曲が流れる。ドラムは100本を超すピンによって「楽譜を記憶する部品」であり、振動板は「メロディを奏でる部品」と言えようか。製造マニュアルがなかった時代、三協精機の開発チームは、スイスから取り寄せたオルゴールを分解して、その構造を研究した。ドラムにはピンをひとつひとつ手作業で付け、振動板の櫛歯はこれも丁寧に手で磨いていった。それはまさに、ミリ以下の繊細な作業だった。
およそ1年の歳月をかけて、1948年(昭和23年)に試作品が完成、国産オルゴールの第1号だった。記念すべき最初の曲は、童謡の『ちょうちょ』。試作品は6台できたが4台は次々と櫛歯が折れてしまい、音が出たのはたったの2台だけ。しかし、ゼンマイが引っかかるなどして「それはバケツの底を叩くような音だった」と記録されている。音質を改善するために、振動板をより適した材質に替えるなど改良を加えた。そして、その年の暮れ、三協精機は国産オルゴール500台を出荷したのだった。
全自動の生産ラインなどなかった時代だけに、オルゴール作りはすべて手作業だった。地元からは数千人もの人たちが工場で作業に関わった。まさに“諏訪の町ぐるみ”での生産だった。そしてニッポンの製造技術はこうした精密機械を作る細やかな作業に力を発揮した。やがて、当初は手作業だったオルゴール製造も機械化が進み、ドラムに1本1本手で植え付けていたピンも、プレス機によって全体を同時に製造できるようになった。オルゴールは誕生日や記念日の贈り物として人気が高まっていく。1970年代に入ると、その製造技術は世界でもトップクラスになり、生産数は本家のスイスを抜いて年間1億台となった。三協精機のオルゴールは、世界シェア実に90%を記録した。
三協精機は、2005年(平成17年)に現在の「日本電産サンキョー」と社名を変更した。諏訪湖畔には「すわのね」と名づけた直営のオルゴール記念館があり、世界各国の貴重なオルゴール展示の他、700曲から自分の好きなメロディを選んで“自分だけのオルゴール”を作ったり購入したりすることができる。2022年11月には、世界的な工業デザイナーである奥山清行氏と組んで、斬新な透明アクリルチューブ型のオルゴールを発表した。木工による共鳴台からは、150曲ものメロディがフルコーラスで奏でられる。
日本で飛躍的に進化したオルゴールは、今も諏訪の地から世界の空の下に素敵なメロディを届けている。「オルゴールはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが、“魂を癒す澄んだ音色と共に”刻まれている。
【東西南北論説風(387) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。