プラネタリウムはじめて物語~壮大な夢は“究極の天体ショー”へと進化した!
生まれて初めて「プラネタリウム」へ行った日のことは、半世紀以上たった今でも鮮明に覚えている。昭和の時代、場所は名古屋市科学館だった。ドーム型の会場内が次第に暗くなって、真上に満天の星空が広がった時の感動は忘れられない。そんなプラネタリウムは、日本でめざましい進化を続けている。
世界で最初の「プラネタリウム」は、1923年にドイツで生まれた「カールツァイス1型」。形は“ダンベル型”で、丸い天井に星たちを投影させた。星の数は4500個だったと記録されている。このドイツ製プラネタリウムが日本に初めてやってきたのは、1937年(昭和12年)。大阪市立電気科学館(現・大阪市立科学館)に設置されたが、当時の値段で50万円、現在だとおよそ3億円という高価な輸入機器だった。
そんなプラネタリウムを見るために、科学館に足を運んでいたひとりの人物がいた。田嶋一雄さん。1899年(明治32年)和歌山県生まれ。大学卒業後に、父親が経営していた貿易会社で働き始め、その関係で出かけたヨーロッパ視察で、カメラに出会った。帰国後に自分で写真機店を創業して、国産カメラの製造を始めた。そんな田嶋さんは、星を見ることが大好きだった。ヨーロッパの地で、カメラと同時に田嶋さんが出会ったもうひとつのもの、それがドイツで見たプラネタリウムだった。レンズに詳しかった田嶋さんは、科学館でドイツから来たプラネタリウムを楽しむ内に、自らの会社「千代田光学精工株式会社」でもプラネタリウムの投影機を作ろうと決意した。
田嶋さんは、早速、プラネタリウムの知識が豊富だった発明家・信岡正典さんらに声をかけて、国産のプラネタリウム作りに乗り出した。当時の投影機は「光学式」というもので、星の数だけ小さな穴を開けて、それを通った小さな光がレンズを通してドーム型のスクリーンに映し出される仕組みだった。田嶋さんたちは、日本らしい細やかな工夫を凝らす。ドイツ製では、星は大きさだけで表現されていたが、色合いや明るさも変えて、より忠実に星を再現した。一等星はドイツ製の80倍も明るくしたという。世界で初めて、星がピカピカと点滅する装置も開発、満天の星を動かす場面では、赤道を基準に動きを設計して、正確な動きを再現した。
こうして完成した国産プラネタリウム第1号「ノブオカ式プラネタリウムⅠ型」は、ドイツ製にまったく引けを取らなかった。投影される星の数は9000個、ドイツ製の2倍だった。1958年(昭和33年)、兵庫県の阪神パークで開催された科学大博覧会で3か月にわたって披露されて、20万人を超す大勢の観客を魅了した。
その4年後の1962年、田嶋さんの会社は、それまでカメラに付けていたブランド名から「ミノルタカメラ」と名前を変えた。その後、同じ写真機メーカーのコニカと経営統合し「コニカミノルタ」として発展を続け、同時にプラネタリウム開発も進化していく。プロジェクターによって星空を映し出す「デジタル式」を開発し、1997年には、光学の技術による星空にCGで創り出した映像が重なり合う、まったく新しいプラネタリウムも世界で最初に開発した。国内に400館ほどあるプラネタリウムの半数ほどが、コニカミノルタが製造した機器である。
コニカミノルタのプラネタリウムの最新モデルは「LEDドームディスプレー」である。2022年3月にオープンしたばかりの「プラネタリアYOKOHAMA」は、半円型のドームに貼り付けられた5500枚のLEDパネルが自ら光って、映像を映し出す仕組み。ストーリー性、そして人気俳優によるナレーションなど、それはまるで、ドーム型の“星空映画館”のようだ。スマホで撮影もできる。スクリーンいっぱいに映像が映し出されたと思うと、次の瞬間には満天の星空に変わる。
日本の光学技術を駆使した天体ショーは、横浜をはじめ名古屋の「満天NAGOYA」など、現在は5か所で体験できる。田嶋さんが星空に描いた夢は、令和の時代でもドームの天井いっぱいに広がっている。
国産のカメラ作りから始まった夢が、やがてプラネタリウムにも姿を変えて、日本の星空から世界に広がっていった。「プラネタリウムはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“満天の星空の下で”今日も輝いている。
【東西南北論説風(361) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。