日本の暮らしに「石けん」を!香りと色を追求した明治から令和への開発史
「石けん」のルーツは、古代ローマ時代にさかのぼる。丘の上の神殿で羊を焼いて神に供える儀式があったが、したたり落ちた脂が木の灰と混ざって固まった。この土で手を洗ってみたところ、汚れがよく落ちた。脂と、灰の持つアルカリ成分が混じり合った“偶然の産物”だった。この不思議な土は「石けん」として、ヨーロッパ各地で作られるようになった。その丘は「サポーの丘」と呼ばれていたため、英語の石けん(soap)」の語源になったと伝えられる。
日本に「石けん」がやって来たのは16世紀、種子島に鉄砲が伝えられたと同じ時にポルトガルから持ち込まれた。この時の名前は「シャボン」だった。明治時代になって、初めて国産の石けんも作られたが、それは主に“洗濯用”だった。そんな「石けん」に目をつけた人物がいた。長瀬富郎さん、江戸時代の1863年(文久3年)に、美濃の国(現在の岐阜県中津川市)に生まれた。11歳の時から雑貨商で働いていた長瀬さんは、24歳の時に独立して「長瀬商店」を創業した。文房具や帽子など扱う商品の中に、海外から輸入した石けんもあった。顔や身体を洗うことができたが、とても高価で一般庶民には手が出ないものだった。「日本人の暮らしを清潔にしたい」と、長瀬さんは自らの手で多くの人が使うことができる「石けん」を作ることを決意した。
長瀬さんがめざしたのは、顔や身体を洗うことができる石けんだった。当時の主流だった洗濯用石けんを作った経験のある職人や薬剤師に声をかけて、石けん作りをスタートした。それまでの国産石けんは、使うと肌がひりひりしたり、白い布地に色が移ったりしたため、まず肌に良い成分を探した。そして植物ホルモンであるサリチル酸が抗菌効果もあり、肌にも優しいことが分かり配合した。また輸入石けんは強い香りがして、日本人には向かなかった。飽きのこない香りはないか?そこで故郷の岐阜県の特産物である柿の実を思いついて、香りや色の参考にした。1890年(明治23年)、ついに自分たちの「石けん」が完成した。半年間の歳月をかけて作った石けんに、新しい名前を付けることにした。「顔を洗うための石けん」、ならば覚えやすいように「顔」という響きをそのまま使って「かおう石鹸」と決めた。漢字は「花」と「王」を充てた。日本を代表する「花王石鹸」の誕生だった。
輸入品に負けない高級感を出すために、石けんは蝋(ろう)の紙で包み、さらに「花王」という商品名を印刷した上質紙で、二重に包装した。月のマークが人の顔になっているデザインも、長瀬さん自らが考えた。それを桐箱に3個ずつ入れて、1箱35銭で発売した。蕎麦1杯が1銭の時代、花王石鹸1個は蕎麦12杯分、現在ならば6000円という高価な品物だった。専門家に依頼した「品質証明書」などを添えたり、当時としては画期的だった鉄道沿線の立て看板を設置したり、最初は贈答用として人気を集め始めた「花王石鹸」は、こうしたユニークなPR作戦によって、次第に日本全国に広がっていった。
長瀬さんらが作った国産石けんの歩みは続く。高度成長期を迎え、大阪で万博が開催された1970年(昭和45年)に誕生した「花王石鹸ホワイト」は、クリームの成分が入った滑らかさから「クリームみたいな石けん」というキャッチコピーで一躍人気商品になった。身体を洗うための液体石けん「ボディーソープ」、髪の毛を洗うための「シャンプー」、台所の必需品である「洗剤」など、より使いやすく、より肌に優しく、そしてより環境に配慮して、明治から令和へと時代は移っても「石けん」の進化は続いている。
日本人の暮らしを清潔にしたいという熱い思いが、ニッポンに石けんを誕生させた。「石けんはじめて物語」のページでは、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“優しく温かい香りの泡に”包まれている。
【東西南北論説風(366) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。