新春「歌会始」の歴史を探訪~かつては「お題」が漢字5文字の時代もあった
今年も「歌会始」が、冬晴れの空の下、皇居で行われた。2025年(令和7年)1月22日、お題は「夢」。天皇皇后両陛下はじめ皇族方の歌などに加えて、一般応募の入選者10人の作品も披露された。
今回の一般応募総数は?
今回の「歌会始」には、1万6,250首の歌が寄せられた。この中には海外からの88首も含まれている。最年少は宮崎県の16歳の女子高校生、最年長は長野県に住む77歳の元エンジニアの男性だった。宮内庁によると、一般からの応募は、戦後、昭和の末期には3万首を超えて、その後は2万首ほどの数が続いていたが、新型コロナ禍だったここ数年は、1万5,000首ほどで推移しているという。
「歌会始」の起源は鎌倉時代?
宮中に人々が集まって、共通のお題で歌を詠んで披露し合う歌会は、奈良時代には行われていた。宮内庁によると「万葉集」にそれらしき記述があると言う。年の初めに行われるようになったのは、13世紀、鎌倉時代の中期ではないかとのこと。この宮中での歌会は、江戸時代、明治時代も続き、昭和の時代に入ってから、今日の「歌会始」と呼ばれるようになった。
日本ならではの皇室行事
長い間、皇族や側近たちだけの歌会だったが、明治7年(1874年)に初めて、一般からの歌が認められ、国民も歌会に参加できるようになった。優れた歌は、宮中の歌会で披露されることになり、今日に通じるスタイルができた。宮内庁によると、世界でも珍しい“一般国民が参加できる皇室の文化行事”とのことである。
お題はこうして決まる
毎年のお題は、歌人たちから挙がった複数の候補の中から、天皇陛下が決める。「分かり易さ」と「一般の人にとって歌の詠み易さ」が考慮されるという。今回は「夢」、その前の年は「和」など、最近は漢字一文字が多いが、かつてはそうではなかった。明治時代に入っての最初のお題は「春風来海上」という五文字。昭和初期にかけて「新年望山」とか「雪中早梅」など四字熟語も多かった。戦後になってお題も簡略化されて、昭和22年(1947年)は「あけぼの」、翌年は「春山」だった。昭和29年(1954年))に初めて「林」という漢字一文字が登場し、その後は「雲」「星」「朝」「海」「鳥」「魚」「家」「旅」など“歌が詠み易い”お題になった。
自作の歌はこうして応募
「歌会始」に応募することを「詠進」と呼ぶが、そのルールを確認しておこう。自作の短歌であること、ひとり1首、未発表のもので、もし当選しても事前に内容を明かした場合は無効になる。応募は、習字用の半紙を横長に使い、右半分に「お題」と「自分の短歌」を書く。左半分に「郵便番号、住所、電話番号、氏名、生年月日、職業」を記入する。無職の人でも、以前に働いたことがある場合は「元の職業」を書く。これらをすべて毛筆によって本人が書かなければならない。筆と墨を使っての直筆、こうしたところに、この歌会始の歴史と伝統の重みが感じられる。
「披講」は7人によって
歌は、独特の節回しで披露される。「披講」と呼ばれるが、司会にあたる「読師(どくじ)」の他、最初は節をつけずにすべての句を一気に読む「講師(こうじ)」、続いて、第一句を節をつけて読む「発声(はっせい)」、そして続く第二句以降を節をつけて読む「講頌(こうしょう)」4人、この合わせて7人によって「披講」される。一般から入選した10首は、詠んだ人の名前紹介から、作品の紹介まで、およそ3分間かかる。一般の入選作に続いて、歌を選んだ選者、召人(めしうど)、皇族方の歌などが読み上げられ、皇后陛下、そして天皇陛下の歌となる。
両陛下による今年の歌は?
両陛下や皇族方の歌には、この1年に訪問した場所や、ふれ合った人々の思い出や心情などが詠まれることもあり、その意味でも注目される。皇后陛下は、かつて留学した英国オックスフォード大学へ、天皇陛下とご夫妻で訪れた際の思い出を詠まれた。
「三十年へて君と訪ひたる英国の学び舎に思ふかの日々の夢」
天皇陛下は、震災の被災地や公式行事の訪問地で、子どもたちの“目の中”に見た未来への希望を歌にされた。
「旅先に出会ひし子らは語りたる目見輝かせ未来の夢を」
ご夫妻共に、それぞれが旅先で感じた気持ちを「夢」というお題に託された。
「歌会始」の後、来年のお題が「明」と発表された。9月30日まで、宮内庁にて「明」を詠んだ歌の受付が行われる。日本の古式ゆかしき儀式「歌会始」は、令和の時代も歴史のページを紡いでいく。
【東西南北論説風(552) by CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】