首里城の火災から5年~正殿の屋根瓦もお目見え、復元への力強き歩み
5年の歳月が流れても、あの衝撃は忘れられない。夜空に立ち上る紅蓮(ぐれん)の炎に包まれていたのは、沖縄県那覇市にある首里城だった。テレビのニュースが映し出す悲惨な映像に、遠く離れた地に住みながらも、心をかき乱された。
5年前の大火災
首里城は、那覇市首里の高台にある。頂上の石垣に腰を下ろすと、遠くに見える海からの風が頬に心地よい。沖縄を訪れて時間があると海風に逢いに行く。そんな首里城を災厄が襲ったのは2019年(令和元年)10月31日の未明だった。正殿内部からの出火によって、火はたちまち燃え広がり、正殿など7棟が全焼、2棟が一部焼失し、同時に、琉球の歴史や文化を物語る貴重な美術工芸品など400点も焼失した。
首里城の歩み
首里城の歴史は、まさに沖縄の歴史そのものと言える。城は琉球王国当時の15世紀に建てられた。中国などとの海外貿易の拠点であった那覇の港を見下ろす丘の上にあり、城を中心に、政治、経済、そして文化などが営まれていった。時は流れて、太平洋戦争当時は、旧日本陸軍の司令部が置かれた。20万人が犠牲になった沖縄戦の、ひとつの舞台でもある。2000年(平成12年)の九州・沖縄サミットでは、各国首脳を招いての夕食会も開催された。
「涙が止まらなかった」
そんな首里城は、サミットが開催された直後に世界遺産に登録された。北部にある今帰仁城跡や斎場御嶽などと共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、日本国内11番目のユネスコ文化遺産に選ばれた。もっとも、首里城で世界遺産の対象となったのは、建築物ではなく、城の基盤となった17世紀以前の「遺構(いこう)」である。火災で焼失した正殿などは、1992年(平成4年)に復元されたもので、その歴史はまだ新しかった。それでも、沖縄の人たちは、ある人は涙を流しながら、焼け落ちていく首里城を見守った。
「戦後に新しく作られた城であり、それほどの思いはなかったはずだった。しかし、涙が止まらなかった」
首里城は、沖縄の人たちの心にしっかりと根づき、大切な存在だったのである。
集まった復興基金
あれから5年、今、首里城では再建に向けた復元工事が順調に進んでいる。火災を受けて、国は迅速に、首里城復活へ乗り出した。総工費は120億円。同時に、沖縄県では「首里城復興基金」をスタートした。火災の翌月から2年5か月の間に、沖縄県内、県外、さらに海外からも沢山の寄付金が集まり、総額は55億4,000万円を超えた。今回の火災を、いかに多くの人たちが悲しんだかの表れだった。その基金は、主に正殿を復元する沖縄県産の木材の費用に使われる。
いよいよ赤瓦も登場
その木材を使って、新しい姿を見せ始めた首里城の正殿では、屋根廻りの細工も終わった。14万枚を超える瓦板を、職人たちが1枚1枚、丁寧に打ち付けていった。夏には、県内の工場で「クチャ」という泥岩や赤土を使って焼かれた赤瓦が運び込まれて、6万枚を葺く作業が続いている。年内には、この瓦葺きも終わり予定で、正殿は新しい朱色の姿を見せることになる。
「見せる復興」の歩み
今回、首里城は再建への歩みを「見せる復興」と名づけて公開してきた。首里城がよみがえる様子を、常に多くの人に見てもらおうという、画期的な取り組みだった。城のメインの入り口である「奉神門(ほうしんもん)」から、全長140メートルの見学デッキが作られて、訪れた人たちは、作業の様子を見ることができる。現場の様子や再建への歩みを紹介する有料ツアーも行われている。首里城が力強く復活する姿を見てもらうことで、琉球の歴史や文化を再認識してもらいたいという思い、それは見学した側の心にもしっかりと残った。新たな首里城には、これまでなかったスプリンクラーも完備され、悲劇を二度と繰り返さない対策も取られる。
思わぬ“副産物”も・・・
火災をきっかけに、首里城ではもうひとつ、注目されたものがある。それは「地下壕」、太平洋戦争当時の「第32軍司令部」の跡で、総延長は1キロメートルと推定される。戦時中は、ここに軍の作戦室や無線室、兵士たちの宿舎もあった。沖縄県が調査に入って、再建される首里城が公開されるタイミングで、この「地下壕」も公開できないか、県による検討が続いている。実現すれば、「ひめゆりの塔」や「摩文仁の丘」などと共に、貴重な歴史を伝える場所となるだろう。
再建される首里城の公開は、2年後の2026年秋の予定である。それを待つ那覇界隈では、11月に今年も復興祭が開催されて、琉球王朝を偲ぶ古式ゆかしい行列が繰り広げられる。その賑わいは、近づく首里城の復活へ何よりの前奏曲になりそうである。
【東西南北論説風(533) by CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】