昭和最後の優勝者はドラゴンズ・歓喜の夜に名古屋が沸いた!(20)
優勝へ向けて、我々ファンの期待が高まった星野ドラゴンズ2年目は、開幕戦にスタメン出場したルーキー立浪和義選手の躍動感あふれるプレイでスタートした。
甲子園でのPL学園春夏連覇を達成したキャプテン。高卒の野手としての開幕スタメンはドラゴンズでは球団史上初、プロ野球でも王貞治選手以来29年ぶり3人目だった。前年に近藤真一投手のプロ初登板ノーヒットノーランがあっただけにチームももちろんだが、ファンのボルテージは上がっていた。
8月に早くも優勝マジック
しかし、現実は厳しかった。1988年(昭和63年)開幕戦で小松辰雄投手がひじを痛め降板。次の2試合こそ勝ったものの4月終わった段階で、ドラゴンズは首位の広島カープに実に8ゲーム差をつけられての最下位だった。ところが、6月に入ると3位に浮上。そして8月は15勝5敗で一気に10の貯金を積み上げ、8月31日には優勝マジック25が点灯した。
その原動力はセ・リーグで2年目を迎えた主砲・落合博満選手はじめ、円熟した世代となった投手陣・攻撃陣だったが、何よりも若手だった。立浪選手はもちろんだが、1番センターに定着した“切り込み隊長”彦野利勝選手、沖縄出身の快速右腕・上原晃投手、そしてアメリカ留学から帰国して先発陣に加わった山本昌広投手(現・山本昌)らが、次々と好成績をあげてチームに活力を与えた。若い選手の活躍はファンにとっても嬉しいものである。
残念なブライアント放出
ドラゴンズの選手層に余裕があった証拠のひとつは、6月末にラルフ・ブライアント選手を近鉄バファローズにトレードで放出したことだろう。
その後、パ・リーグでホームラン王に輝くなどブライアント選手は近鉄の中心打者として活躍、ドラゴンズファンとしては本当に悔しい思いをした。特に、中日スポーツを毎日購読していた私としては、トレードの少し前の紙面で、解説者の広岡達郎さんが書いた記事、
「外国人枠の問題で1軍に入れないブライアントをトレードに出す噂があるが、絶対に やめた方がいい。彼は日本に順応するタイプで、大活躍するだろう」
これを読んでいただけに、切歯扼腕状態だった。それでも優勝するのだから、ドラゴンズは強かった。
ソウル五輪・リクルート事件そして・・・
この年はソウルでオリンピックが開催された。水泳の鈴木大地選手の「バサロ泳法」などが話題になったが、オリンピックの頃、星野ドラゴンズの優勝は確信に変わっていた。政財界を巻き込んだリクルート事件もこの年だった。ロッキード事件に続く大きな汚職事件で、日本は揺れた。
そして、さらに日本国中がショックを受けたニュースが、ドラゴンズが順調にマジックを減らしていた9月中旬に起きた。昭和天皇の入院である。
9月19日の夜だった。昭和天皇入院の知らせを受け、休みだった私も緊急出勤した。
翌日から、ニュースのトップ項目は、天皇の容態となった。血圧、体温、下血の有無など発表される数値に、国民が一喜一憂しながら心配の日々に入った秋だった。
歓喜のナゴヤ球場
10月7日、ドラゴンズはナゴヤ球場のヤクルト・スワローズ戦でセ・リーグの優勝を決めた。11対3の圧勝だった。
優勝決定試合は大差にもかかわらず、次々と一線級投手を繰り出す、言わば星野監督演出“お祝い試合”で、最後はセーブ王でMVPも獲得した郭源治投手が締めくくった。優勝決定の瞬間、マウンドでぴょんぴょん飛び跳ねる郭投手。
私は、それを職場であるCBC報道部のデスクで見ていた。
1982年(昭和57年)以来6年ぶりの優勝だが、6年前と同じく、またしても宿直勤務だった。そして、ナゴヤ球場の状態は、これも過去と同じ。14年前の再現かと思うように、ファンがスタンドからグランドに雪崩れ込んで、収拾のつかない騒ぎになった。折れ曲がったネットにはさまれてケガ人も出た。星野監督の優勝インタビューもなく、ナゴヤ球場は混沌の渦に巻き込まれていた。
そうなると、優勝を純粋に喜ぶ前に、ニュース報道という仕事のことを考える自分がいる。このままの騒ぎが続くと、名古屋の街は大変な夜を迎える予感がしていた。そして、その予感は的中した。
優勝に沸く名古屋の町
天皇ご病気という事態を受けて、世の中はいわゆる“自粛ムード”に包まれていた。
井上陽水が窓を開けて「お元気ですか?」と声をかける車のコマーシャルから、セリフの音声が消えたのが象徴的な出来事だった。
ドラゴンズも、優勝祝賀会やビールかけの自粛を早々に決めていた。星野ドラゴンズ待望の初優勝、しかし思いっきり祝うことができない空気・・・それがファンの爆発に結びついたのだろうか。
宿直デスクの私の元には、名古屋市内を流れる堀川に納屋橋の上から次々とファンが飛び込んでいるとか、テレビ塔下の噴水に大勢のファンが結集し雄たけびをあげているとか、様々な情報が届き、取材チームに指示を出していた。
日付が変わって午前2時。中心部である中区栄の騒ぎがさらにヒートアップしていると聞いた瞬間、祝杯をあげて会社に寄った同僚に留守番を頼んで、取材に飛び出していた。
取材と言いながら、実は自分もファンのお祝いの輪に加わりたかったのが本音だったかもしれない、正直に言うと・・・。
いつまでも続いたドラ騒ぎ
栄の大通りには愛知県警が広報車を出して、ファンに静まるよう呼びかけていた。
後に「DJポリス」なる警官の放送が脚光を浴びたが、中途半端な呼びかけは火に油を注ぐだけだった。ファンは次々と噴水の池に飛び込み、取材に来ていたCBCの後輩記者も押されて水に落ちた。これはファンではない、暴徒だと腹が立ち、広報車の上でマイクを握っている警察官に「何とかして下さい」と大声で文句を言った。
宿直勤務をそんなに長い時間離れるわけにはいかず、再び社に戻った。優勝の喜びと共に、思いっきり騒げない複雑な思いが自分の中にも渦巻き、眠れない一夜を過ごした。
その後の日本シリーズについては多くを語りたくない。14年前と同じ西武ライオンズとの決戦だったが、1勝4敗の完敗。特に第1戦でライオンズの4番、清原和博選手がナゴヤ球場の場外まで打ったホームランは凄かった。この一振りで、シリーズの雌雄は決したと思う。落合選手がシリーズ後に語った言葉を今でも覚えている。
「4番の差だ」
ちょうど3か月後に、昭和という時代が幕を閉じる。結果的に、この年のドラゴンズのリーグ優勝は“昭和最後の優勝”となった。(1988年)
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。