「落合家で皿洗いをしたことがあるか!」上司の叱咤とドラゴンズの1年(19)
三冠男・落合博満選手を追った『JNN報道特集』は、1987年(昭和62年)4月19日に全国放送された。
一点でボールをとらえたバットの秘密と秘打「正面打ち」を軸に、家庭人・落合の素顔などを30分ほどにまとめた。TBSのスタジオにバットを持ち込んで私も生出演で取材の裏話を語った。
上司からの厳しい叱咤
これでまたひとりのドラゴンズファンに戻ることができる・・・そんな達成感と開放感を木っ端微塵に吹き飛ばしたのは、放送当日、打ち上げ会の後、東京に同行していた報道部長の言葉だった。
「お疲れ様。だけどこれで満足してもらっては困る。お前はまだまだ落合家に食い込んでいない」
言葉はきびしい口調に変わる。
「お前は落合家で皿洗いしたことがあるか!」
このお叱りと共に、シーズンが終わる頃、セ・リーグでの落合選手の1年を追った第2弾を放送するよう命じられたのだった。ドラゴンズファンに戻る日は先延ばしになった。
落合取材での2つの誓い
シーズン開幕と共に、私は2つのことを始めていた。
ひとつは落合選手のシーズン全打席、それも全球を克明に記録しようということ。これをやれば、スポーツ記者にも負けない“番記者”になれると思った。報道部での宿直担当の夜などに、スポーツ部が収録しているゲームの中継映像を借りて、落合選手の全打席をチェックしながらダビング編集し整理した。
そしてもうひとつは、機会あるごとに落合家に通うこと。上司の言葉ではないが、皿洗いをやろうと決意した。
皿洗いの機会はやがて訪れた。放送の御礼にお邪魔した際、信子夫人に「皿洗わせて下さい」とお願いして、台所で食器を洗った。報道部長は「例えば皿洗いをするぐらいに家庭に入り込め」という意味で“皿洗い”と言ったことはもちろん解っている。しかし、私にも意地があり、絶対やろうと決めていた。信子夫人は「どうしたの?北辻さん」と目を丸くしていた。
近藤真一投手の快挙に沸く
シーズンに入った落合選手は、パ・リーグで三冠王を取った時のような爆発的な成績を残せないでいた。もちろん、並みのバッターなら十分に合格点の数字だったが、日本人初の1億円プレーヤーである。本人も周囲も高いレベルで見つめていた。
夏を迎え、ドラゴンズファンにとって、暑さを吹き飛ばす歴史的な快挙が生まれた。
ルーキー近藤真一投手(現・真市)が、プロ初登板初先発でノーヒットノーランを達成したのだ。その相手が読売ジャイアンツとあって、私たち竜党のボルテージは上がった。お盆休みを前にした8月9日ナゴヤ球場。ジャイアンツ相手にまだ19歳にもなっていない高卒ルーキーを初先発させるところは、さすが星野仙一監督だった。この試合はCBCテレビが生放送しており、9回に入ったところで私は快挙達成を信じて、VTRでリアルタイム録画を始めた。こういう映像はファンとして絶対に残しておきたい。
最後の打者・篠塚利夫選手を見逃し三振に討ち取って6対0で勝利。この試合で、落合選手は23号、24号と2本のホームランを打って花を添えている。さすが大舞台を知り尽くした役者だった。
喜びの二世誕生
快挙から10日後、今度は落合家には何より嬉しいニュースがあった。待望の二世誕生である。8月20日、信子さんは男児を出産、自宅から近い名古屋第二赤十字病院だった。
落合番になってから決めていたことがあった。私の父は寝具店を経営していた。
「落合家のベビーふとんはウチの店から持って行こう」。すでに落合夫妻にはその話もしてあった。
とはいえ、父も商売人なので、私は給料から料金を支払った。定価ではなく原価にまけてもらった。当時、大阪などでふとんに針が混入される事件があったことから、落合家に持参する前夜は、父子二人で慎重にチェックをくり返した。
そして、名古屋市千種区の自宅に届けたが、信子夫人はまだ入院中、落合選手も自宅には不在で、知人の方が留守番中だった。二世は福嗣君と名づけられた。
ベビーふとんへの御礼
退院の日、病院のホールでは記者会見が行われた。独占取材でもなく各社一斉の取材だったこともあり、私には別の予定が入っていた。しかし、スポーツ担当記者が、4日前に亡くなられたOBでCBCの解説者でもあった杉浦清さんの葬儀取材にまわらなくてはならなくなり急きょ私が記者会見に行くことになった。
記者会見場では最前列に座った。すると、福嗣君を抱いた落合夫妻が会場に現れ、会見前にまず記者席にいる私に対して、
「おふとん、ありがとうございました」
「ありがとう」
と御礼の言葉を告げてくれたのだった。感激だった。取材に自宅にお邪魔した際の門の外での見送りといい、こうしたところに人の礼儀正しさが表れる。言われた私の方が恐縮してしまう言葉だった。
そして、信子さんからはこんな約束もいただいた。
「将来、北辻さんが結婚して子供が生まれたら、直後に落合がナゴヤ球場で打つホームランのドアラ人形はお祝いに贈るわね」
再びの落合特番そして・・・
落合選手を追った第2弾となる『報道特集』は、その年の10月4日に放送した。
テーマはシーズン最後の10日間に密着してそのシーズンを描く・・・というものだった。初めてのセ・リーグでの日々、日本初1億円プレーヤーの思い、そして私生活での二世誕生などを追跡したドキュメンタリーだった。
そして、実はこれが私にとって独身最後の大仕事にもなった。今回は報道部長からもお叱りはなかった。当然と言えば当然だろう。落合家で皿洗いもしたのだから・・・。
落合夫妻からの最高の出産祝い
こうして1年にわたった落合取材はいったん一段落となった。私は1年ぶりにひとりのドラゴンズファンに戻った。しかし、取材は終わっても、落合家とのご縁は続いた。
2年後、娘が誕生した時、私は三重駐在記者として津市に住んでいた。
まだ妻も出産直後で名古屋の実家にいた初秋の頃、仕事を終えて社宅マンションに帰ると、管理人さんのところに大きな荷物が届いていた。「落合博満」という差出人の名前を見て、管理人さんは興奮している。その場で開封しかねない管理人さんには申し訳なかったが、部屋まで運び、一人で開封した。落合選手のサインが入った大きなドアラ人形だった。約束の品だった。
このドアラ人形は娘の目にふれることはなく、実家の私の部屋に大切に飾った。赤ちゃんにとってはただの“ぬいぐるみ”にすぎないが、私にとっては落合番そして落合家庭番の日々の証し、かけがえのない“宝物”なのだから。(1987年)
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。