駅弁から始まった人気の味!横浜が舞台の「シューマイはじめて物語」
豚肉の旨味が凝縮された点心「シューマイ(焼売)」を愛する人は多い。湯気が出ているシューマイを頬張る時の、得も言われぬ幸福感、そして絶妙の風味。そんなシューマイは、中国の南部、広東省の発祥である。「シャオマイ」と呼ばれ、春巻と共に、中国料理を代表する点心となった。そんなシューマイは、17世紀の江戸時代には日本へ伝わったと言われる。そして、横浜の南京街(現在の中華街)で受け継がれてきた。
当時の横浜駅(現在の桜木町駅)で駅長をしていた久保久行さんは、駅長を退職する時に、妻・コトの名義で駅構内での営業許可を受けて、1908年(明治41年)から、寿司や餅、飲み物などの販売を始めた。久保さんは、長崎県の出身だった。江戸時代の出島によって、日本で唯一、異国との扉が開かれていた長崎は、中国の商人たちから「太陽の当たる岬=崎陽」と呼ばれていたことから「崎陽軒(きようけん)」と名づけた。
明治40年代の東海道線では、次々と駅弁の店が登場して、ホームでは、肩から紐でつった木箱に駅弁を積み上げて、声高らかに販売する風景が見られるようになった。「崎陽軒」も本格的に駅弁に力を入れることになり、久保さんの婿養子だった野並茂吉さんを支配人に迎えた。この野並さん、とてもアイデアマンだった。横浜駅は、始発駅である東京駅に近いため、駅弁を売るには圧倒的に不利な条件だった。そこで、野並さんは考えた。
「何か他とは違う、横浜ならではの名物を作れないだろうか」
そんな時、横浜の中華街で突き出しに出てくる「シューマイ」に着目した。
「シューマイを横浜名物にしよう!」
本来は、ホカホカに蒸して食べる「シューマイ」。しかし、駅弁でそれは難しい。ならば「冷めても美味しいシューマイ」を作ることはできないだろうか、と中華街から点心の職人を店に招いて、開発を始めた。1年の歳月の末、豚のひき肉に加えて、干したホタテの貝柱を入れるアイデアにたどり着いた。従来のシューマイの味に、バラエティ豊かな風味と膨らみが加わった。また、揺れる列車内でも食べやすいように、「一口サイズ」にした。こうして、1928年(昭和3年)に「崎陽軒」のシューマイが完成した。初代社長に就任していた野並さんは、商品名を「シウマイ」とした。野並さんは栃木県出身で、地元の言葉などから、「シュ」という発音が苦手だったらしいと、「崎陽軒」の広報担当者はふり返る。本場の広東省でも「シウマイ」と発音していたこともあって、「崎陽軒」では、一般的な「シューマイ」ではなく「シウマイ」とした。
戦後になると、「崎陽軒」は、横浜駅のホームに、駅弁の売り子ならぬ「シウマイ娘」を登場させた。赤い服を着て、手籠に入れたシウマイを車窓から売る女性たちは、小説や映画にもなるなど、人気者になった。1954年(昭和29年)には、シウマイをメインに玉子焼きや焼き魚を加えた「シウマイ弁当」を発売。
ひょうたん型の小さなしょう油入れには、漫画家の横山隆一さんが顔を描いた。「ひょうちゃん」と名づけられ、“いろは”の48文字にちなんで全部で48種類を製作。これを集めるコレクターまで出てくるほどの人気となった。
駅弁として、どんどん売れるようになると、旅行客から要望が出始めた。
「こんなに美味しいシューマイならば、お土産に持って帰りたい」
そこで「崎陽軒」は、1967年(昭和42年)に「真空パック シウマイ」を発売した。現在では一般的に使われる「真空パック」という言葉は、実は「崎陽軒」がシウマイのために考え出した、オリジナルな言葉なのである。真空パックのシウマイは保存ができるため、遠方へのお土産にも最適だった。「崎陽軒」のシウマイは、季節ごとの味も採り入れるなど、ますます進化を続けている。駅弁から始まった横浜の味は、時代を越えて多くの人々に愛されている。
「シューマイはじめて物語」のページには、日本の食文化の歩み、その確かな1ページが、“ハマで愛され続けてきた、美味しさと共に”折詰めされている。
【東西南北論説風(423) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。