「修学旅行」の思い出は何ですか?日本独自の集団旅行、その歩みと魅力
学校生活のハイライトのひとつは「修学旅行」だろう。小学校から始まって、中学校、そして高等学校まで、同窓会などでも思い出話のテーマになる。それは、この旅行が“学年全体で行く集団旅行”という、日本独自の特色を持っているからだろう。
わが修学旅行の記憶は鮮明である。いずれも昭和の時代、愛知県名古屋市からの旅なのだが、小学校の修学旅行は1泊2日で、静岡県の「三保の松原」へ行った。途中では、静岡県内にあるヤマハの楽器工場や登呂遺跡を見学した。翌朝には海岸に出て、全員で地引き網を体験した。沢山の魚が捕れて大漁だったが、準備してくれた地元の漁師さんが、魚はすべて持ち帰った。中学校では2泊3日で、東京と箱根へ。国会議事堂の見学では地元出身の国会議員さんが案内してくれて「名古屋に帰ったら、おうちの人にくれぐれもよろしくね」と言われた。我々にはまだ選挙権がなかったからだ。NHK放送センターでは、大河ドラマの撮影風景を見学、羽田空港へも寄り、鎌倉では鶴岡八幡宮も訪ねた。高校では3泊4日で福島県の磐梯高原へ。期間中すべて同じ宿に泊まって、磐梯山の麓にある五色沼や、吾妻小富士などを散策するという自然体験型の旅だった。いずれも、それぞれの卒業アルバムを彩っている。
そんな「修学旅行」、実は日本で生まれ、日本で続いている独自の教育イベントである。公益財団法人「日本修学旅行協会」のホームページによると、日本で最初の「修学旅行」は、1886年(明治19年)に、東京師範学校(現在の筑波大学)が、千葉県銚子方面で実施したものだという。期間は、11泊12日と、現在では考えられない長さだった。当時は「長途遠足」と呼ばれ、いわば“宿泊を伴う長距離の遠足”だった。体力作りの訓練と合わせて、鉱物や海の貝殻の観察と採集、気象の調査、そして文化財や遺跡の見学など、内容は盛り沢山だったそうだ。修学旅行という行事は、全国の師範学校や旧制中学校に広がっていった。
修学旅行を進化させた大きなパートナーは、鉄道であろう。我々も小学校では観光バスだったが、中学校と高校では、鉄道のお世話になった。日本で最初の修学旅行から3年後の1889年(明治22年)には、鉄道が使われるようになったが、ここで登場したのが、団体割引という制度だった。50人以上150人未満で、運賃は25%引き。300人以上だと半額。まさに“修学旅行のための”団体割引とも言える。昭和の時代には、修学旅行の専用列車も登場した。我々が中学校の修学旅行で東京へ行った時は、すでに東海道新幹線の貸し切り車両だったが、先輩たちは、東海道線で「こまどり」と名づけられた専用列車を使ったそうだ。1952年(昭和27年)の記録では、国鉄が行った団体輸送の乗客の、実に86%が修学旅行生だった。
行き先で、特筆すべきは、三重県の伊勢神宮である。鉄道運賃も、伊勢神宮へ参拝する修学旅行の場合は、割引率は高かったそうで、この「参宮旅行」を行なう学校も増えた。かつて江戸時代には「お伊勢参り」という風習があったが、修学旅行でもそんな伝統が受け継がれたようだ。伊勢神宮へ行く途中に、京都や奈良へ立ち寄る学校も多くなり、長きにわたり「京都・奈良」は修学旅行先の定番だった。そんな旅行先だが、名古屋地区の場合、中学校は「東京ディズニーランド・ディズニーシー」、高校は「沖縄」が人気になって久しい。バスガイドさんが全員を引率して案内するスタイルから、生徒たちがグループごとに自主的に行動する「体験型」にもなっていった。沖縄では太平洋戦争の戦跡などを巡り、語り部から戦争の話も聴く。2011年(平成23年)東日本大震災の後は、被災地を訪問して、災害や防災について学ぶことをテーマにする学校も増えている。修学旅行も時代と共に、進化を続けている。
3年間に及んだ新型コロナ禍で、学校行事としての「修学旅行」も、中止されたり変更されたり、翻弄されてきた。それもようやく出口を迎えようとしている。どうか楽しい思い出が作られますようにと、心から願う。「修学旅行はじめて物語」のアルバムには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが、“思い出という名の沢山の写真たちと共に”刻まれている。
【東西南北論説風(421) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。
(参考)公益財団法人「日本修学旅行協会」公式ホームページ内
『修学旅行の歴史』(教育旅行年表「データブック2022」)
『修学旅行の歴史-修学旅行はなぜ生まれ、どう進化を遂げてきたのか-』
(竹内秀一著/「運輸と経済」第79巻 第6号 2019年)