新幹線はじめて物語~“夢の超特急”を誕生させた熱き思いと幻の鉄道計画
「汽笛一声(いっせい)新橋を、はや我(わが)汽車は離れたり」
鉄道唱歌の有名な歌詞のように、日本で初めて鉄道が走ったのは、東京の新橋と横浜の間、1872年(明治5年)のことだった。鉄道技術は英国から伝えられ、東海道本線そして山陽本線へと、鉄路は日本の東西をレールで結んでいった。
太平洋戦争が終わって、高度成長期に入った昭和30年代、交通の大動脈を担っていた東海道本線の沿線には、日本の全人口の4割以上が集中し、10年後には乗客や貨物が2倍以上に膨れ上がることが試算された。このままでは、輸送はパンクしてしまう。そこで必要になったのは“新しい東海道線”だった。
そんな中、ひとりの鉄道マンが国鉄の総裁に就任した。十河信二(そごう・しんじ)さん、1884年(明治17年)に愛媛県で生まれた。大学卒業後に、国鉄の前身だった鉄道院に入って、南満州鉄道などで活躍していた。そんな十河さんに白羽の矢が立った。当時の国鉄は、慢性的な赤字や相次ぐ事故によって、そのリーダーたる国鉄総裁への成り手はひとりもいなかった。十河さんは71歳という高齢だったこともあって、何度も辞退したが、その心の中には鉄道に対する熱い思いがたぎっていた。1955年(昭和30年)に十河さんは国鉄の第4代総裁に就任した。その時の言葉は「鉄路を枕に討ち死にする覚悟」だった。
十河総裁は、就任した翌年に「東海道線増強調査会」を組織して、東京と大阪を3時間で結ぶという計画を発表した。そして、この鉄道は“新しい幹線を作る”という意味から、「新幹線」と名づけられた。新しい鉄道には2つのテーマがあった。スピードを出すためにレールの幅をこれまでより37cm広げ「広軌(こうき)」と呼ばれる1435ミリ(1m43cm)にすること。もうひとつ、事故を防ぐため、線路には一切「踏切」をなくし、すべて高架にすること。そんな鉄路の夢を実現するために大きく歩み出させたのは、過去にあった“幻の鉄道計画”だった。
1937年に始まった日中戦争が激しくなる中、戦地である中国大陸へ人や物資を送るために、新たに鉄道を作る計画が持ち上がった。その名も「弾丸列車計画」。東京から山口県下関までのおよそ980kmを9時間で結び、さらに中国大陸へという壮大な鉄道計画だった。1940年(昭和15年)に工事が始まったが、太平洋戦争の開戦で工事はストップしてしまった。しかし、静岡県の日本坂トンネルだけは工事が進められた。また一部の用地買収も終わっていた。東京と大阪の間に新しい高架線路を作るためには、1200万平方メートルの用地が必要だったが、その2割がすでに国鉄のものとなっていた。“幻の鉄道計画”は、戦後になって「新幹線」として“幻”から“現身(うつしみ)”になっていったのだった。
新幹線の建設には、総額3000億円という莫大な予算が必要だったが、十河総裁は自ら世界銀行と交渉して1億ドルの鉄道借款を申し入れた。日本に新しい鉄道を作るために海外に資金を出させるという、大胆な発想とリーダーシップだった。「弾丸列車計画」の遺産、そして海外からの資金調達の成功によって、着工からわずか5年で、東京と大阪を結ぶ東海道新幹線は開通した。その年、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、さらに6年後の大阪万博で、新幹線は大量の乗客輸送に力を発揮した。
十河さんは“新幹線の父”と呼ばれ、東京駅の東海道新幹線ホームには、肖像を彫り込んだ記念碑が建てられて、今も新幹線の発展を見守っている。日本で生まれた新幹線は海外にも進出して、2007年には「台湾高速鉄道」としてデビュー、今や「SHINKANSEN(シンカンセン)」という名前は、そのまま世界で通用するブランドになった。
海外からやってきた鉄道を“夢の超特急”と呼ばれる高速鉄道まで成長させたニッポンの技術力。「新幹線はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かなレールが力強くどこまでも続いている。
【CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。