追悼・橋本淳さん~昭和の歌謡史を彩った歩みと1968年の神がかり的な作品群
その功績にあらためて驚かされる。昭和時代の歌謡界を作詞家としてリードした橋本淳さんの訃報が届いた。2026年5月21日に死去、享年86だった。
橋本さんの代表曲は?
歌謡界や芸能界に関わった人が亡くなると、その作品にスポットライトが当たる。どの代表作を紹介するのかは、その訃報を報じる放送ディレクターや記者によって様々なのだが、橋本さんの場合、真っ先に挙がるのは『ブルー・ライト・ヨコハマ』であることは、衆目の一致するところだろう。
“ヨコハマ”の色はブルー
「街の灯りがとてもきれいね」という歌い出し、「歩いても歩いても小舟のように」という中盤のリフレイン、「ヨコハマ ブルー・ライト・ヨコハマ」という「ヨコハマ」という地名のくり返し。カタカナであることが心憎い。作曲家の筒美京平さんのメロディ、いしだあゆみの歌唱と見事に合って、昭和を代表する1曲になった。初めて聴いた頃、なんてロマンチックな歌なのだろうかと、当時はまだ訪れたことがなかった横浜の港町への憧れが募った。
「1968年の橋本淳」
この『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、1968年(昭和43年)12月の発表なのだが、橋本さんの作品リストを見ると、この年、いかに多くの名曲を生み出したのかと、我が目を疑うほどだった。当時、バンドブームに乗って人気絶頂を迎えていたのが“グループサウンズ”である。
オックスの『ガール・フレンド』『スワンの涙』、ヴィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』、ザ・ゴールデン・カップスの『長い髪の少女』、ザ・ジャガーズの『マドモアゼル・ブルース』、そして、ザ・スパイダースの『真珠の涙』。他にもまだまだある。これらは1968年、わずか1年の間に発表されている。
グループサウンズを輝かせた

忘れてはいけないのが、作曲家のすぎやまこういちさんとのコンビによる、ザ・タイガースの作品たち。ジュリーこと沢田研二、トッポこと加橋かつみ、この人気ボーカルを擁したグループのデビュー曲『僕のマリー』から始まり、1968年には『君だけに愛を』と『銀河のロマンス』を発表した。
筆者がグループサウンズで愛するベスト3、『スワンの涙』『真珠の涙』そして『君だけに愛を』3曲すべてが、実は同じ年、同じ橋本淳さんから生み出されている。前年には、ジャッキー吉川とブルーコメッツに書いた『ブルー・シャトウ』が日本レコード大賞も受賞している。橋本さんの“作詞魂”が輝いた日々だった。
アイドルたちの名曲も
橋本さんの作詞の凄さは、その裾野の広さである。グループサウンズのブームが去った後、野口五郎には、実力派アイドルとして歩み始めた1曲『青いリンゴ』を、郷ひろみには、大人のアイドルへ脱皮し始めた1曲『誘われてフラメンコ』を提供した。当時、仲雅美という俳優がいた。ホームドラマから青春ドラマまで、引っ張りだこの人気ぶりだった。彼が歌った『ポーリュシカ・ポーレ』そして『涙のジャーニー』も橋本さんの作詞である。特に前者は、ロシア民謡と言われるメロディに、壮大な内容の歌詞を見事に合わせた名曲だ。
愛とロマンスを歌にした

日吉ミミの『男と女の数え唄』、内藤やす子の『弟よ』、ヒデとロザンナの『愛は傷つきやすく』など、昭和の時代を過ごした人なら、一度どころか何度も聴いたことがある歌謡曲たち。そして、作曲家の平尾昌晃さんが、当時の“教え子”だった歌手・畑中葉子とデュエットした『カナダからの手紙』も、橋本さんの詞に平尾さん自らが曲を合わせて、大ヒットした。日本、海外、時に、宇宙までも歌の舞台にして、そこに愛とロマンスを投影させていく。多くの人に愛された、素晴らしい作詞家だった。
数多くの名曲を残して旅立った橋本淳さんに、筆者が大好きな1曲、仲雅美の『涙のジャーニー』から締めのフレーズを送って、感謝と共にご冥福をお祈りしたい。
「いつの日か あなたに 逢いたい もう一度」
【東西南北論説風(692) by CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】




