「奥琵琶湖パークウェイ」ができるまで孤立…“独自の法律”を作った集落「菅浦」を深掘り
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道を紹介。今回は、滋賀県の「奥琵琶湖パークウェイ」にまつわる“集落の歴史”を紐解きました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
「奥琵琶湖パークウェイ」が開通するまで孤立していた集落「菅浦」

滋賀県北部の長浜市を走る「奥琵琶湖パークウェイ」は昭和46(1971)年、有料道路として開通。平成元(1989)年に無料で通行できる県道となり、現在は風光明媚なドライブコースとして親しまれています。

そんな奥琵琶湖パークウェイが開通するまで、交通手段が船しかなかったという集落「菅浦(すがうら)」が存在。1000年以上、険しい山と琵琶湖に挟まれた閉鎖的な環境だったことから“隠れ里”と呼ばれ、江戸時代まで独自の法律で集落を統制していたと言われています。

集落の入口には藁ぶき屋根の棟門「四足門(しそくもん)」が設置されており、「集落の領域と外界を区切っていた」と書かれた案内看板も。中世から明治維新の頃まで集落の四方の入口にあったことから「四足門」と呼ばれ、“要害の門”として外部から来る人間を監視していました。

普段は倒れないよう大きな石で固定。外から攻められた際に石をはずして四足門を倒し、内部に人を入れないようする役割があったといいます。かつては東西南北の4か所にありましたが、現在は西と東の2か所のみ残されています。
道路開通で村おこしするも人口が半減… 新たな仕事で生計を立てる家庭も

菅浦集落の住民によると、道路が無い時代は、住民が個人で所有する船に乗って隣町の「大浦(おおうら)」まで行き、そこからバスなどで他の地域へ行っていたとのこと。奥琵琶湖パークウェイができる5年前には、自衛隊によって湖岸沿いに細い未舗装路が造られましたが、大浦の手前の「奥出湾(おくでわん)」で道は終わっていたそう。

奥琵琶湖パークウェイが開通したことで、長浜の中心地に直接行けるようになったといいます。

開通に伴い、村おこしとして9軒の民宿が開業してしばらく賑わいましたが、現在はほとんどが閉業。道路開通で便利になった一方、仕事を求めて村を離れる人も多く、昔と比べて人口も戸数も半減しました。

そんな地場産業が弱かった菅浦に、ディーゼルエンジンを製造し、農業機械や船舶用エンジンなどを展開してきたヤンマーディーゼル(現ヤンマーホールディングス)の創業者であり長浜出身の山岡孫吉(やまおかまごきち)さんが目をつけます。
昭和35(1960)年、エンジンの部品などを作る工場を20か所設置し、菅浦の住民に業務を委託。それにより仕事が生まれ、生計を立てていた人たちもいたとのこと。現在は1か所に集約して稼働しています。
“自分たちの村は自分たちで守る”江戸時代まで機能していた自治組織“惣”とは

菅浦郷土資料館の職員によると、菅浦では中世に生まれた「惣(そう)」と呼ばれる自治組織を作り、江戸時代中期まで機能していたとのこと。

その中には、裁判官のような“長老衆”と呼ばれる役職があり、“自分たちの村は自分たちで守る”という精神をもとに「土地の境界線を双方の意見を聞いて決めたり、罪人を裁いたりしていた」そう。昔は8人担当がいて、江戸時代までは菅浦の罪人を裁く役割を担っていたといいます。

惣村(そうそん)時代の集落の記録が書かれた「菅浦文書(もんじょ)」は、歴史的価値が高く貴重な史料として国宝に指定されています。集落の至る所に当時の遺構が保存されており、ここに刻まれた歴史はこれからも後世へと引き継がれていきます。
CBCテレビ「道との遭遇」2026年6月30日(火)午後11時56分放送より





