東野圭吾もミステリーの舞台にした「バレエ」、500年の歩みと日本での“今”
人気小説家の東野圭吾さんが初期に書いた作品に『眠りの森』がある。後に東野作品には欠かせない刑事・加賀恭一郎が若き時代に登場するミステリーで、その舞台となるのが名門バレエ団。クラシック・バレエの演目である『眠れる森の美女』が、ストーリーの軸となり、バレエの魅力も随所に紹介されている。
誕生は中世のイタリア
バレエは「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで大人になった」と言われる。15世紀のイタリアは、ルネサンス期の真っ只中にあった。貿易によって、貴族たちは財を積み上げて、毎夜毎夜、夜会を開いて栄華を謳歌していた。その中で、音楽に合わせてステップを踏むダンスが取り入れられた。それは「バロ(Ballo)」と呼ばれて、貴族たちはそんなショーを舞踏会へと発展させていった。レオナルド・ダ・ヴィンチによって、舞台でも上演されたことから、「バロ」は一躍注目を集めることになったと伝えられる。
フランス国王も愛した
その「バロ」は、隣国のフランスへ持ち込まれ「バレエ(Ballet)」と呼ばれるようになった。この「バレエ」に魅了されたのが、時のフランス国王、ルイ14世だった。ブルボン王朝の最盛期を支え“太陽王”とも呼ばれたルイ14世は、自らもバレエを踊るほどに愛したと言う。そして、17世紀の半ばに、王立音楽アカデミーを設立する。これが現在の「パリ・オペラ座」である。バレエダンサーを養成する学校も始まり、イタリアで生まれた「バロ」は、このオペラ座を中心に「演劇バレエ」へと成長していった。しかし、オペラ座は19世紀後半に火災によって消失してしまう。
そして『白鳥の湖』へ
そして舞台はロシアへと移る。ここにひとりの音楽家がいた。ピョートル・チャイコフスキーである。クラシック音楽で世界的な人気を誇る作曲家は、バレエ音楽に向かい合った。フランスから招いた振付師と共に生み出されたのが、今や誰もが知る『白鳥の湖』『眠れる森の美女』そして『くるみ割り人形』である。ここに「クラシック・バレエ」が生まれた。毎年クリスマスが近づくと、世界各地で『くるみ割り人形』が上演される。その中には軽快なテンポのお馴染みのメロディーもあり、バレエの楽しさと魅力を多くの人に知らしめることになった。
ニッポンはじめて物語
そんなバレエが日本にやって来たのは、大正時代のことだった。1912年(大正2年)に帝国劇場で初上演され、1920年代には、世界的なバレエダンサーであるアンナ・パヴロワが来日して、バレエ公演を行い、さらに同じ“パヴロワ”姓のエリアナ・パヴロワが教え始めた。これをきっかけに、日本でも“観る”だけではなく“自分で踊る”バレエが一気に広がっていった。一般社団法人・日本バレエ団連盟のホームページによると、バレエを学ぶ生徒数は、現在では全国で25万人を超えているという。
全世代に拡がるバレエ
驚くのは、バレエを踊る世代の幅広さである。子どもたちの習い事というイメージがありがちだが、日本バレエ団連盟によると、実は日本国内のバレエ教室での在籍率は、50代が最も多く77%を超えている。次いで40代が73%、80代も6%ほどいる。世代を越えて楽しまれているのが、バレエなのである。そして“自分で踊る”楽しみを知った人たちは、当然“観る”楽しみも共有する。新型コロナ禍の直前には、日本国内のバレエ公演も2,800回を超えた。熊川哲也さんのような世界的なバレエダンサーも登場し、日本発の創作バレエも注目を集めている。500年前にイタリアで生まれた踊りは、総合芸術として日本も含めた世界中を席巻し続けている。
東野圭吾さんの『眠りの森』は、加賀刑事とヒロインの間にこんなやりとりがある。
「バレエは楽しいですか?」「わたしの人生そのものです」。
同じように胸を張るだろう大勢のバレエダンサーたちが、今日も世界各国で舞台に立ち、そして観客を魅了させていることだろう。
【東西南北論説風(523) by CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
<引用>東野圭吾『眠りの森』(講談社・1989年初版発行)
<参考>一般社団法人「日本バレエ団連盟」公式ホームページ