ドラゴンズ野球が戻ってきた!立浪采配から透ける歴代監督、星野と落合そして?
ナゴヤ球場(旧・中日球場)近くで生まれ育った我が人生の歩みからすると当然なのだが、周囲には老若男女問わずドラゴンズファンが多い。立浪和義監督率いる2022年の新生・中日ドラゴンズ、複数の竜党から聞かされる言葉は「ドラゴンズの野球が戻ってきた」。まったく同感!その意味するところは、よく理解できる。立浪監督の野球からは、歴代のドラゴンズ名将の姿が次々と思い出される。
若手を大胆に起用~星野監督
真っ先に思い浮かぶのは星野仙一さん。1987年(昭和62年)から2期11年にわたって、ドラゴンズの監督だった。現役時代は「燃える男」、監督時代は「闘将」と呼ばれ、背番号「77」の印象は強い。星野采配は、とにかくドラゴンズファンの胸を躍らせた。中でも若い選手の積極的かつ大胆な起用は見事だった。高卒ルーキー近藤真一投手の讀賣ジャイアンツ戦での初登板初先発。同じく高卒ルーキー立浪和義選手(現・監督)の開幕スタメン起用。その他にも若手の起用には枚挙にいとまがない。立浪新監督の下でも、岡林勇希と石川昂弥、20歳の両選手が開幕からスタメンを続ける。19歳の高橋宏斗投手が早々にプロ初勝利を挙げる。若い力はファンに夢を与え、時に力強い勢いをチームにもたらす。楽しみで仕方がない。
巨人には負けない!~与那嶺監督
次に浮かんだのは与那嶺要さん。1972年(昭和47年)から6年間ドラゴンズを率いて、3年目にはどのチームも破れなかったジャイアンツの10連覇を阻止して、20年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。その功績はあまりにも大きい。与那嶺監督は特に巨人、すなわちジャイアンツに対しての闘争心がすごかった。現役選手だったジャイアンツ時代、監督になった川上哲治さんから構想外の選手とされて、追われるように中日に入団した怒りが根底にあった。「宿敵・巨人に勝ちたい」という執念。立浪ドラゴンズの開幕戦の相手は、そのジャイアンツ、ましてや東京ドームという敵地だった。「やられたら必ずやり返す」という開幕前夜の立浪語録。ジャイアンツを倒してこそのドラゴンズだと、長年のファンの心にあらためて火を点けた。
逆転を最後まで信じて~近藤監督
何を仕掛けてくるかわからない豪快さで、ファンを魅了した「野武士野球」。近藤貞雄さんの代名詞である。1981年(昭和56年)から3シーズンだけの監督だったが、本当に面白い野球だった。リードされていても、最後の最後までゲームの決着は分からなかった。今も語り草になっている監督としての2年目、1982年9月28日ナゴヤ球場のジャイアンツ戦。4点リードされた9回裏に相手のエース江川卓投手を打ち砕くと、延長10回にサヨナラ逆転勝ちして、優勝マジックを点灯させた。2022年シーズン、4月8日の神宮球場で、いったん追いつかれながらも打ち勝った立浪ドラゴンズの戦いぶりに、近藤「野武士野球」の面影を見た。
「勝つ」執念と戦術~落合監督
そしてもうひとり、忘れてはならない監督がいる。落合博満さん、2004年(平成16年)から8年間ドラゴンズを率いて、リーグ優勝4回、日本一1回、すべてAクラス。 ドラゴンズの黄金期を築いた。立浪監督は現役時代、落合“選手”と一緒にプレーし、落合“監督”の下でユニホームを脱いだ。晩年は代打が中心だったが、引退後に立浪監督はこんなことを語っていた。
「引退する前の3年間は、自分が監督だったら“こうする”“こうしない”そんな視点で見ていた」
身近で見ていたこともあり、おそらくゲームでの立浪戦術は落合監督的なのかもしれない。 落合監督はシーズン全試合を俯瞰して捉え、逆算して最終的に「最も上に立っていればい い」と話していた。立浪采配にも、そんなどっしりと構えた空気を感じる。ただ、立浪監 督は1シーズンだけでなく、すでに3シーズンも先、5シーズンも先の勝利を見据えてい るように思えてならない。立浪監督の中の“オレ流”、シーズンを通しての戦いの中で、い つ、どんな形で出てくるのだろうか?私たちはそれを目の当たりにすることになる。
星野、与那嶺、近藤そして落合。球団創設86年を迎えたドラゴンズで、筆者自身が、そ の野球を実際に見てきた監督の中からベスト5を選ぶならば、この4人の監督が思い浮か ぶ。5人目の席は言わずもがな、そこに背番号「73」立浪和義が座ることを確信して、 今日も熱い応援を続ける。
【CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。