衝撃の火災から6年、パリのノートルダム大聖堂で今日も続く復活への歩み

大聖堂の再建工事は着々と進められていた。2025年(令和7年)初夏、フランスのパリを訪れて、真っ先に駆けつけた場所、それはノートルダム大聖堂だった。ユネスコの世界文化遺産にも登録されている教会は、世界中に衝撃を与えた火災から力強く復活の歩みを続けている。
パリ発祥の地の大聖堂
セーヌ川の真ん中にある島「シテ島」は、パリ発祥の地でもある。紀元前300年頃に、ケルト人のパリシイ族が暮らし始めて、そこからパリの町が栄えていった。ノートルダム大聖堂は、そのシテ島に12世紀に建設されたゴシック式の教会である。
数々の歴史の舞台
「ノートルダム」はフランス語で「notre dame」(私たちの貴婦人)という意味で、聖母マリアを表している。そんな崇高な名前を持つ大聖堂は、数々の歴史の舞台にもなってきた。百年戦争のヒロインであるジャンヌ・ダルクの復権裁判、また、ナポレオン・ボナパルトが皇帝になる戴冠式など、フランスの歩みを見守ってきた。『ノートルダムの鐘』というディズニー映画やミュージカルの舞台にもなった。
衝撃を与えた火災

そんな歴史ある大聖堂を火災が襲ったのは、2019年(平成31年)4月15日の夕刻だった。出火原因はその後の捜査でもはっきりと判っていないが、火は10時間以上も燃え続けた。大聖堂の屋根の部分と、その象徴と言える高さ96メートルの尖塔が焼け落ちた。塔が倒れる瞬間を伝える映像は、その日の内に世界を駆け巡った。年間1,200万人が訪れるという“パリの象徴”ノートルダム大聖堂の火災は大きな衝撃を与えた。
復活への歩みは力強く

マクロン大統領は、火災の翌日早々に「ノートルダム大聖堂は、すべてのフランス国民のものであり、その再建は国民の望みである」と、5年以内の再建を宣言した。政府内に「大聖堂再建担当」という特別代表ポストを設けた。国内の企業や芸術家などに呼びかけて「シャンティエ・ド・フランス」日本語に訳すと「フランス作業所」というチームを編成して、復元をスタートした。寄付などで集まった8億ユーロ、日本円にして1,300億円もの予算を投じて、2,000人が工事にあたった。新型コロナ禍もあって「5年以内」には間に合わなかったが、2024年(令和6年)の12月には、大聖堂の一般公開にまでこぎつけた。
復元工事の“今”を訪ねた

その後、工事は尖塔部分の復元や内部の祭壇周辺を中心に進んでいる。実際に近くへ行くと、とてつもない数の鉄骨によって丁寧に足場が組まれ、スタッフが忙しく作業をしていた。南側のセーヌ河畔から見ると、作業所の壁には巨大な看板が掲げられ、そこには修復にあたっている設計者や技術者ら4人の大きな写真が紹介されている。“人の力”によって、大聖堂を復活させるのだという意気込みを、力強くアピールしているようだ。大聖堂前の広場には、「観覧席」のような段差が設置されていて、腰を下ろして工事の風景を見ることもできた。
地下に眠っていた財産

今回の火災では、焼けた大聖堂の地下から思わぬ副産物がもたらされた。再建工事のために教会の床を剥がしたところ、沢山の装飾品が見つかったのだ。彫刻やキリスト像など、その数は1,000点以上という。およそ800年前から、大聖堂の地下で眠っていた。色も形も当時のままほぼ保たれていて、考古学者たちも「ノートルダムの歴史を知る上で貴重な資料になる」と評価する。そんな品々のパネル写真も、工事現場周辺で展示されている。同じ年に火災があった沖縄の首里城が、復元工事の様子を日々公開する“見せる復興”に取り組んでいるが、ノートルダム大聖堂も負けじと、復活の歩みを訪れる人たちに紹介している。
作業は2027年を目標に続けられるという。夏に向かうセーヌ川を吹く風は優しい。それを頬に受けながら、大聖堂の周辺では、世界各国から訪れた人たちが、復活する大聖堂を眩しそうに見上げていた。
【東西南北論説風(592) by CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】