日本での「つけまつげ」誕生秘話~浅草の花街から歩み出したアイメイクの歴史

日本での「つけまつげ」誕生秘話~浅草の花街から歩み出したアイメイクの歴史

女性にとって“目のおしゃれ”は化粧の重要なポイントである。まつ毛を濃く見せるという化粧方法は、古代エジプトに起源すると伝えられている。やはりそれは、かのクレオパトラという存在があったからだろうか。

日本で「つけまつげ」が登場したのは、1920年代の大正時代末期。東京の浅草で働いていた芸者や踊り子たちが、目元をぱっちりと見せようと、外国製の「つけまつげ」を使い始めるようになった。しかし、なかなか手に入りにくい希少品だったため、見よう見まねで自分たちの髪の毛を使って、お手製の「つけまつげ」を作っていた。

「創業者・小林幸司さん」提供:株式会社コージー本舗

そんな「つけまつげ」に目をつけた人がいた。小林幸司さん、かんざしやかつらなど小間物を扱う商店を1927年(昭和2年)から経営していた。小林さんは、浅草の街で女性たちに流行り始めていた「つけまつげ」を見て、今で言う“アイメイク”の重要性に気づく。早速、自分で「つけまつげ」の製造に乗り出した。もともと、かつらを扱っていたので、素材とする髪の毛はその入手ルートを活用した。

当時の「つけまつげ」は人の髪の毛を1本1本束ねて、手編みで仕上げていた。小林さんは実際に使っている女性たちから作り方を聞きながら、編み上げていった。ひとつの「つけまつげ」には120本の毛を使ったという。均一に編むこと、まとめた毛をばらけないようにすること、それに留意しながらの手作業は繊細なものだった。まぶたに付ける接着には、松の木の天然樹脂「松やに」を使った。それでも、人の毛は柔らかすぎて、うまく付かなかったため、カタン糸という手芸用の細い木綿糸を使う工夫も加えた。

「国産つけまつげ第1号」提供:株式会社コージー本舗

数か月に及んだ試行錯誤の末、1947年(昭和22年)、日本生まれの第1号となる「つけまつげ」が完成した。前の年に「小林コージー化粧品本舗」と会社の名前を替えていたため、この国産初の商品に「特製コージー附マツ毛」と命名した。すべての工程が手作りだったため、どんなに腕のいい職人でも、1日あたり20個が限度という手の込んだ品だった。小林さんは自らの「つけまつげ」を「アイラッシュ」と呼ぶようにして、3年後には海外への輸出を始めた。そして1954年(昭和29年)に会社名を現在の「コージー本舗」とした。

「獣毛つけまつげ」提供:株式会社コージー本舗

もっともっと多くの女性たちに気軽に「つけまつげ」を使ってもらいたい。小林さんは、動物の毛を使ってみることを思いつく。馬の毛や豚の毛を試したが、毛が固すぎて目元には使いづらい上、色が人間のまつげにはなじまなかった。そんな中、出会ったのが高級な毛皮で知られるミンクだった。軽くて、毛先がすっきりと細いミンクの毛を使ったソフト感ある「ミンク アイラッシュ」は、1975年(昭和50年)に発売されて、人気商品となった。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「まつげ」

世界で初めて合成繊維のナイロンを使うことにも挑戦した。ナイロンは、人や動物の毛と比べて、毛先もさらに細く、そして加工しやすいため大量生産が可能となった。この頃、英国のモデルで「ミニスカートの女王」として人気だったツイッギーさんが来日。18歳の彼女が「つけまつげ」を愛用していたこともあって、日本国内で「つけまつげ」はブームになった。コージー本舗は、韓国、中国、ベトナムなど海外に次々と生産拠点を作り、日本生まれの「つけまつげ」は世界各国の女性たちへ広がっていった。

目のおしゃれに“革命”をもたらした「つけまつげ」。ニッポン独特の繊細な技術は、アイメイクの世界で、海外にもその名を知らしめた。「つけまつげはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“目元パッチリと”刻まれている。

東西南北論説風(323)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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