武田勝頼が「長篠の戦い」で食らった、あまりにも大きすぎるダメージ
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。5月23日の放送では、徳川家康、前田利家、陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、「長篠の戦い・設楽原の戦い」について取り上げました。
関連リンク
この記事をradiko(ラジコ)で聴く長篠の戦い・設楽原の戦い
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1575年5月21日に起こった「長篠の戦い・設楽原の戦い」について。
徳川家康「織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍を破った戦いじゃな。場所は現世で言うところの愛知県新城市あたりじゃ。特に合戦の中心地となったのが設楽原での」
武田勝頼は、武田信玄の息子で四男。本来の世継ぎであった兄・武田義信が謀反の疑いで廃嫡(後に自害)され、次男が盲目、三男が早世していたため、信玄の後を継ぎました。
そして、三河・遠江(今の愛知県東部から静岡県西部)へ勢力を伸ばそうとしていたのです。まさに徳川家康の領土へ向かってきた形になります。
家康「その中で、勝頼は我が徳川の重要拠点であった長篠城を攻めるわけじゃ」
長篠城を守っていたのは、奥平貞昌(のちの奥平信昌)。城を失う危機に陥った家康は、織田信長に助けを求めたのです。
信長にとってもチャンスだった
長篠城を奪われ徳川家康が弱くなれば、織田家にも影響が及びます。
この頃、織田信長畿内で戦をしていましたが、ちょうど一段落して下を休ませていたタイミングでした。
前田利家「信長様にとっては、長く敵対しておった強敵の武田家を一気に撃破して天下への道に向けた総仕上げのような戦いであっての。現世では三段撃ちとかが有名なんじゃろ?」
「三段撃ち」とは、火縄銃により絶え間ない連続射撃をすべく3段(3組)に分けて撃つという手法。織田・徳川連合軍は騎馬隊で有名だった武田家を1500~3000丁もの火縄銃を使って撃破したと言われています。
有力家臣を多く失った武田勝頼
「三段撃ち」については後世の創作による誇張が入っているとも言われますが、それでも利家に言わせれば「信長様の軍事力を象徴していた」とのこと。
利家「要は銭があって、当時の最新鋭であった高価な銃を買い集めておったと。
対する武田家は、その準備ができなくての。軍事力の差によって一気に潰されてしもうたことがわかるの。信長様がいかに力があって先進的であったかということを示した戦である」
家康「左様。武田軍にしてみれば、これ以上の大敗は歴史上なかったわけじゃ。そして多くの有能な家臣を失ったんじゃな。例えば、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀とか」
家康が挙げた3人の武将は、まさに武田四天王とも言うべき重臣でした。
山県昌景は全身に多数の銃弾を受けて斃れ、馬場信春・内藤昌秀は何とか総大将の勝頼を逃がすためにしんがりを務めました。さらに他の有力な一門・譜代・重臣を多く失い、武田家はまさに屋台骨を失ったと言えるぐらいのダメージを食らったのです。
その後も、信長のすごさを強調する利家と、「この戦は我が徳川の戦じゃ」と徳川家の話をもっとするように迫る家康のトークが続きました。
なお長篠の戦いから7年後の1582年3月11日、信長による「甲州征伐」で武田勝頼・信勝父子が山梨県の天目山(田野)で自害して滅亡。その約3か月後、今度は信長が本能寺の変で斃れるあたりに戦国の世の難しさを感じます。
(葉月智世)
番組紹介
読んで聴く、新しい習慣。番組内容を編集した記事からラジオ番組を聴いていただける”RadiChubu”。名古屋を拠点とするCBCラジオの番組と連動した、中部地方ならではの記事を配信する情報サイトです。



