扉の数だけ機能も魅力も増える!日本製「電気冷蔵庫」めざましい進化の歩み
「電気冷蔵庫」は、まだ日本が江戸時代だった19世紀、米国で発明された。そもそもの目的は「冷凍」であり、業務用だった。20世紀に入った1918年(大正7年)になって、家庭用の電気冷蔵庫が、同じ米国で誕生した。
日本では、氷を使った冷蔵庫で物を冷やしていた。上の段に氷、下の段に冷やしたい物を入れて、氷から降りてくる冷気によって、冷やしていた。氷は毎日、氷屋さんによって配達された。そんな日本に、米国製の「電気冷蔵庫」が入ってきたのは、誕生から5年後の1923年(大正12年)のことだった。昭和の時代へと、日本でも各家電メーカーによって「電気冷蔵庫」の開発が始まった。
日本での国産「電気冷蔵庫」を最初に作ったのは、芝浦製作所(現在の東芝)だった。米国から輸入された10年後、1933年(昭和8年)の国産第1号は、重さ150キロ、形はまるで“大型の金庫”のようだった。扉も片方からだけ開く“1枚扉”だった。東芝のホームページなどによると、値段は720円。当時の小学校教員の1年間の給料をはるかに上回り、庭付きの家が買えるほどの高級品だったという。もちろん、一般の庶民には手が出ない代物だった。
そんな電気冷蔵庫も、昭和30年代に入ると、次第に一般家庭に広がっていく。電気洗濯機、白黒テレビと共に「三種の神器」とも呼ばれた。この頃から、日本製の「電気冷蔵庫」はめざましい進化の道を歩んでいく。そして、その開発の歩みは、扉の数と共にあるとも言えよう。電気冷蔵庫の扉の数はどんどん増えていく。
もともと扉は1つ、「冷蔵室」用だった。扉を開けると、その上の部分には、氷を作る製氷スペースが小さく設けられていたが、基本的には冷蔵用だった。1970年頃になると、2つの扉を持った電気冷蔵庫が登場した。冷凍用のスペースが独立して「冷蔵室」と「冷凍室」に分かれた。それによって“食品を保存する”という力を存分に発揮していくことになった。
「野菜室」の扉も加わった。野菜の新鮮さはもちろん、ビタミンなどの栄養素もキープできるようになった。食材をしっかりと最適な状態で保存する。低温・一定の温度・高い湿度によって、保存力はアップした。さらに新たな扉として「製氷室」も登場する。業務用の冷蔵庫にある製氷システムを、家庭用の電気冷蔵庫にも導入したのだ。給水タンクに水を入れておくだけで、自然に氷ができて、そのまま保存される機能だった。いつのまにか、勝手に氷ができている便利さ。かつては、仕切りのあるプラスチック製などのケースに水を敷きつめて作った氷が「製氷室」の扉の向こうで簡単にできるようになった。
「チルド室」という扉では、0度を基準にして、冷凍させたくないバターやチーズなどの乳製品も適温で保存できる。ひとつの冷却器ではない「ツイン冷却システム」によって、食品や食材に合わせて、違った温度帯での保存が可能になった。冷蔵室の中には「パーシャル」という“部屋”もできて、肉類や魚類の保存を中心に力を発揮するようになった。メインである冷蔵室の扉も1つから2つへ、いわゆる「観音開き」になって、出し入れがしやすくなった。また、「プラズマ脱臭」機能によって、ラップで包む必要なく、食品の匂い移りを防ぎ、さらに、食材や調理した料理も、その美味しさを保ちながら“保存”できるようになった。食材に味をしみ込ませるなどの“調理”機能も持つようになった。
現在は、扉の数が6つという電気冷蔵庫が主流となっている。扉を閉め忘れると、音声アナウンスが流れて「冷蔵庫の扉が開いています」と注意も呼びかけてくれる。本体の後部に出ていた冷却用の装置なども内蔵されて、形もすっきりとスマートになった。白が基本だった色も、グレーや茶色など多くの種類が増えて、光沢あるガラスタイプも登場した。電気冷蔵庫は、ニッポンの開発技術によって、家電を越えて、今や“高級家具のひとつ”と言っていいほどに成長した。
「電気冷蔵庫はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“冷蔵、冷凍、そしてチルド”それぞれの中身に合わせて、新鮮に保存されている。
【東西南北論説風(441) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。