暮らしの必需品「電気洗濯機」、“洗う”ことを追求したニッポンの挑戦と開発の歩み
かつて日本の家庭の必需品だったものに「洗濯板」がある。凹凸のある板の表面で、ごしごしと洗濯した風景を懐かしいと覚えている人も、時代と共に少なくなったのではないだろうか。今でも時として活躍する場面のある洗濯板だが、そんな洗濯板を郷愁の彼方へと見送ったもの、それが「電気洗濯機」である。
洗濯の歴史をたどると、古代ローマでは、バケツのような容器に衣類を入れて、足で踏んで洗ったという。その後、そんな容器をぐるぐると手で回転させる道具がヨーロッパで広まり、20世紀初めの米国で、手動ではなく電気によって動かす洗濯機が発明された。円筒型の槽を自動的に回転させて、衣類などの汚れを落とす。それが「電気洗濯機」の第一歩だった。
その「電気洗濯機」に日本で目をつけたのが、1875年(明治8年)に創業、1893年に「芝浦製作所」と名を改めていた、現在の総合電機メーカー「東芝」である。数々の“日本初”という商品を作ってきていたが、新たに「電気洗濯機」に挑戦することになった。米国からの技術を研究し、汚れを落とすには、洗濯槽の中で回転する羽の大きさと強さがポイントだと分かった。槽の底に、アルミの羽を3枚取り付けた。その設置角度は実験を重ねた結果、20度の傾斜とした。回転数は毎分50回、一度に洗うことができる容量は2.7kgだった。こうして1930年(昭和5年)、国産初の「電気洗濯機」が完成した。「撹拌式(かくはんしき)」と呼ばれるものだった。価格は370円、学校の教員や銀行員の月収が50円の時代だったので、大変な高級品だった。せっかく製造された国産の電気洗濯機も、一般の家庭ではなかなか買うことはできなかった。
太平洋戦争が終わった頃、今度は羽の代わりに凹凸がある皿を、洗濯槽の底に取り付けた。「噴流式」と呼ばれた。それまでの洗濯機より構造も簡単で、洗濯に費やす時間も短くなった。何より、値段が半分近くに安くなったため、いよいよ電気洗濯機は国内に広がり始めていった。この頃は、洗濯機の側面にローラーが付いていた。洗ってすすいだ洗濯物をローラーの間に通して水を搾った。脱水である。そのため「脱水機付き洗濯機」と呼ばれていた。1955年(昭和30年)には、タイマー付きの洗濯機が登場した。日本が高度成長期に向かう中、人々の暮らしも忙しくなり始めていた。時間をコントロールできるため、洗濯をしながら他の家事もできるようになり、電気洗濯機の需要は一気に延びていった。
次なる大きな進歩は「二槽式洗濯機」である。それまでの脱水ローラーに代わって、洗濯槽の横にもうひとつ、脱水槽が付いた。東芝は、この電気洗濯機に「銀河」と名づけた。機械で脱水が可能になったが、それでも洗濯槽から脱水槽へ洗ったものを移し替える手間は必要だった。その後、風呂の水を自動的に吸い上げて、有効に使うためのポンプが付いた洗濯機が登場した。2つあった槽は1つに統一されて、ついに脱水まですべて自動でできるようになった。洗える容量も、国産初の洗濯機の2倍に増え、衣類だけでなく、毛布やカーテンなど大きなものを洗うことが可能になった。そして、1980年代の後半に、脱水の先をいく乾燥機能のついた「乾燥機付き全自動洗濯機」が発売された。「小型」「軽量化」「節水性」「静かな音」さらに「仕上がりの柔軟性」など、様々な細やかな機能を加えながら、日本の電気洗濯機は、その進化を続けている。
洗って、搾って、干して、乾かすという作業を、“一気通貫”すべて自動で済ませてしまう夢のマシン。「電気洗濯機はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“真っ白な洗い立ての姿で”刻まれている。
【東西南北論説風(392) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。