体温計はじめて物語~健康と命を守りたい!国産の「体温計」作りにかけた町工場の熱き心意気
誰もがお世話になっていることだろう。「体温計」である。日本での開発の歴史をたどると、人の身体の熱を測るという健康と体調管理の“原点”にかけた先人たちの熱さに圧倒される。
体温計は、17世紀のイタリアで生まれたと伝えられる。医者のサントリオ・サントリオが、人間の身体からはじっと動かなくても熱が出ていると知り、それを数値化できないかと考えた。水を入れた容器に熱がこもると水位が上昇することを利用して、体温を測ることに成功。これが世界最初の「体温計」とされる。18世紀になると、ドイツで水の代わりに水銀を利用するようになり、やがて日本にも「体温計」が持ち込まれた。国産の水銀体温計作りも始まったが、まだまだ輸入物が重宝される中、1914年に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパから体温計の輸入がストップしてしまった。
「自分たちでもっと質の良い体温計を作ることはできないか」そんな気運が盛り上がった。
東京の本所区(現・墨田区)に「竹内製作所」という小さな町工場があり、20人ほどの社員が水銀体温計を作っていた。社長である竹内英二さんの名前を取って、商品には「エイジー体温計」と名づけた。竹内さんはいろいろな工夫をする。水銀では体温計の目盛が見にくいという欠点を克服しようと、細いガラス管の中に、赤い線を敷いた。この「着色体温計」では、赤い色を背景に水銀が目盛を刻んでいく。体温はとても見やすくなった。
1921年(大正10年)、東京医師会などが援助して新会社を作り、竹内さんの仕事を発展させて体温計を量産しようという動きが生まれた。賛同人には“近代医学の父”と呼ばれる北里柴三郎さんも加わった。会社の名前は「赤線検温器株式会社」に決まった。竹内さんが発明した赤い線の「着色体温計」に由来する。
水銀体温計の“命”とも言えるのは、細いガラス管だった。体温を正確に測るためには、 水銀が正確に目盛を刻む“細く”そして“均等な”管を作らなければならなかった。その精密なガラス管作りは、まさに職人による手作業だった。溶かした熱いガラスを、鉄の吹き棒で巻き取りながら伸ばす。ひとりが熱いガラスの端を「やっとこ」という金具で挟んで持ち、もうひとりがもう片方のガラスの端を持って走って伸ばす。その距離はおよそ50メートル。熱が冷めない内に伸ばさねばならず、まさに全力疾走で1本1本ガラス管を作っていった。しかしこの方法では、大量のガラス管を作ることはできない。そこで、溶かしたガラスを下から上へ持ち上げて伸ばす、独自の機械も開発、水銀体温計作りは軌道に乗った。
そんな時、国産の体温計作りに暗雲が立ち込めたのは第二次世界大戦だった。1945年(昭和20年)の東京大空襲によって、工場一帯は焼け野原となった。しかし、小さな土蔵だけは焼け残った。そしてその中には、製作途中の体温計37万本が無傷で保管されていた。ガラスは経年劣化で縮んでしまうが、土蔵の中だったことが幸いした。戦後復興の中、体温計の需要は飛躍的に増えた。「赤線検温器株式会社」は、奇蹟的に残っていた体温計をもとに、再生へ力強く歩み出した。この会社が、現在の「テルモ株式会社」である。2021年に創立100周年を迎えた。
体温計の開発は続く。1983年(昭和58年)には「電子体温計」が登場した。水銀体温計と違って、落としたりしても破損しにくく、水銀による汚染問題の心配もない。さらに“これ以上は目盛が上がらなくなる”まで10分間ほど実測する水銀体温計と違って、電子体温計は、体温の上昇を“予測して”合図の音で知らせてくれる。計測時間も一気に短縮されて、1分間、さらに20秒間での計測も可能になった。日本製の体温計はめざましく進化して、海外へも次々と輸出されている。
体温を測ることで、多くの人の健康と命を守ろうとした先人たちの思いと開発の日々。「体温計はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“魂の水銀柱”によって、熱く刻まれている。
【東西南北論説風(327) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。