中日ドラゴンズ球団史に輝く俊足巧打の名センター中利夫選手を語ろう!
今季のペナントレース前に上梓した本に、独断で選んだ「ドラゴンズ歴代ベストナイン」や「次点ベストナイン」など球団史に残るスター選手25人のエピソードを紹介した。
すると、ある読者からこんなご意見を頂戴した。
「中(利夫)選手が取り上げられていなかったのが淋しかった」
まもなく83歳を迎える中利夫さんは、かつてドラゴンズの名センターとした活躍した。
ご要望にお応えして、その中選手を紹介したい。
ドラゴンズ検定に出題された!
2016年2月に実施された中日ドラゴンズ検定1級の問題で、中利夫さんはユニークな設問として登場する。
中さんは登録名を度々変えた。そこから検定試験では「中さんが実際に名乗っていない名前はどれか?」という四者択一問題が出題された。
本名は「中利夫」、1955年(昭和30年)ドラゴンズに入団した時はそう名乗っていた。その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、そして1978年からの監督時代は再び「利夫」に戻した。コーチの時代に「登志雄」と名乗った時期もあるが、解説者時代から現在は本名の「利夫」を名乗っている。
ちなみに検定1級問題の正答は「俊夫」だった。この名は名乗っていない。
俊足巧打の背番号「3」
中選手の印象は、名前がいろいろ変わったことではない。俊足巧打の外野手だった。
平成の時代では、ドラゴンズの背番号「3」は立浪和義さんというイメージが強いが、昭和の時代では「3」はセンターを守る中選手の看板だった。その後、藤波行雄さんや平野謙さんらの外野手が背番号「3」を背負ったのも、「中堅手の中選手」のイメージが少なからず影響したと思う。
左投げ左打ち、進学校としても知られる群馬県の前橋高等学校時代は秀才と言われ、東大に進むかプロ野球に入るか迷ったというエピソードがあると、当時、わが親から聞かされた記憶がある。それもあって「頭のいい選手」という印象だった。
高木・中の名コンビが活躍
ドラゴンズの1、2番コンビは、2004年からの落合博満監督時代に一時代を築いた「アライバ」すなわち荒木雅博選手と井端弘和選手が知られている。
しかし、背番号「1」の高木守道さんと中さんの1,2番コンビも負けてはいない。一世を風靡し球団史に刻まれている。2人ともそれぞれ盗塁王のタイトルを獲得している。
野球を知り尽くした2人が、ゲームの局面によっては自分たちだけでサインを出し合って、縦横無尽にグラウンドを駆け回った。
中さんは1967年(昭和42年)に打率.343で首位打者に輝いた。讀賣ジャイアンツの王貞治選手を抑えてのトップ。その少し前には江藤慎一選手が同じく王選手を破って2年連続で首位打者になっていたため、アンチ巨人が多い昭和時代のドラゴンズファンにとっては、実に痛快な日々だった。
中選手から中監督へ
20年ぶりのリーグ優勝を果たした与那嶺要監督の後を受けて、1978年(昭和53年)から監督になった。背番号は「30」。しかし、3年間の監督成績は5位、3位、そして最下位と芳しくなかった。リーグ優勝を成し遂げた選手たちが相次いでけがをしたことも不運だった。
1980年のシーズンは開幕から最後まで最下位に低迷し退陣、コンビを組んだ高木守道さんもこのシーズンオフに引退したことは、往年の1,2番コンビの縁だったと思う。
監督に就任した時、投手コーチとして“鉄腕”稲尾和久さんを招へいしたことは、今も記憶に鮮明だ。「あの稲尾が中日のピッチングコーチに来てくれるの!?」と、久しぶりのチーム生え抜き監督の誕生と共に、名古屋の町は沸き立った。
当時、中選手からもらったサインボールを今も大切にしている。「中暁生」と読むことができるので、ちょうど首位打者を獲得した頃の現役選手時代だろう。
そのボールを手に取ると、その知的な笑顔と共に、センターを守っていた背番号「3」の好守が目の前に浮かんでくるようだ。
【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。