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哀悼・わが愛しきモリミチ~天国でもバックトスを見せてほしい高木守道さん

哀悼・わが愛しきモリミチ~天国でもバックトスを見せてほしい高木守道さん

訃報は冬ざれた空の下でもたらされた。
2020年1月17日。阪神・淡路大震災から25年を迎え、日本中が静謐な空気に包まれていた朝、中日ドラゴンズの名セカンドだった高木守道さんが亡くなったという知らせが届いた。享年78歳。突然の旅立ちだった。竜一筋の野球人生、歴代数々のドラゴンズ選手の中で最も大好きな選手だった。

歴史はモリミチから始まった

ドラゴンズの応援歌『燃えよドラゴンズ!』は1974年(昭和49年)秋に誕生した。
その年、与那嶺要監督率いるドラゴンズは、宿敵・讀賣ジャイアンツの10連覇を阻止して20年ぶりのリーグ優勝を果たす。そのリーダーが高木守道さんだった。
『燃えよドラゴンズ!』は2番の歌詞から次々と選手の名前が登場する。その最初のフレーズが「1番高木が塁に出る」ことで始まっていた。トップバッター1番打者にして、背番号「1」。まさに高木守道からドラゴンズの歴史は動き出し、そして時代を越えて次々と歌詞を変えながらも歌い継がれる『燃えよドラゴンズ!』の歴史も高木守道から始まったのである。

鮮烈なプロデビューの記憶

高木守道さんの現役時代を知るファンは、親しみをこめて「モリミチ」と呼んだ。後年になって、西沢道夫さんに続く「ミスター・ドラゴンズ」とも呼ばれるようになったが、この「モリミチ」という呼称こそ、私たち竜党と高木守道という名選手をつなぐ“絆”だった。
そのモリミチのデビューは鮮烈だった。1960年5月7日の大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)戦、代走としてプロ初出場を果たすと、即盗塁を決めた。そのまま守備について回ってきた初打席ではホームラン。初出場の試合で、初盗塁・初ヒット・初ホームランそして初打点、すべてを記録した。
ここぞという時の勝負強さにはますます磨きがかかり、“竜のリードオフマン”としての地位を築いていく。

1974年モリミチ輝く3試合

筆者所有:高木守道サインボール

選手としての高木守道さんが最も輝いたシーズンは、『燃えよドラゴンズ!』に象徴される1974年であろう。筆者が今も鮮明に覚えている3つのゲームがある。
1試合目は、6月28日の阪神タイガース戦。リードされた9回裏にサヨナラ逆転3ラン。まったく表情を変えずベースを一周するモリミチに拍手を送りながら、ひょっとしたら優勝も夢ではないと思った。その予感は現実へと一気に動き出した。
2試合目は、10月11日にマジック3で迎えた神宮球場のヤクルトスワローズ(現東京ヤクルト)戦。迫りくる2位ジャイアンツの大きな足音を気にしながら、1点リードされたままで迎えた9回表2死3塁。モリミチはレフト前へ起死回生の同点タイムリーを放つ。同点でもマジックが1つ減り2になった大切なゲーム。翌日のダブルヘッターで連勝して、20年ぶりの歓喜を迎えるのだが、前夜の同点タイムリーの興奮は今も忘れられない。
3試合目は、10月16日のロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)との日本シリーズ第1戦。1点リードされた9回裏1死1、2塁でモリミチは相手エース村田兆治投手からサヨナラツーベース。大歓声の中日球場(現ナゴヤ球場)。ここという時に必ず打ってくれる本当に勝負強い打者だった。

「バックトス」に魅了された!

2020年01月12日(日)『坂東サンデー』に出演する加藤アナ、高木守道さん、板東英二さん(C)CBCラジオ

華麗な守備も忘れられない。代名詞となったのは「バックトス」である。セカンドを守っていてゴロを取るやいなや、1塁ランナーに見向きもせずボールをトスして2塁アウトにする芸術的な守備。ファンは幾度その“技”に魅了されたことだろう。それも実に軽やかで涼しげなプレーだった。現役通算2274安打、236本塁打、813打点、369盗塁、そして200犠打。2006年には野球殿堂入りした。
ベストナインに選ばれること7回。ドラゴンズというだけでなく、プロ野球全体の歴代ベストナインにも、セカンドとして選ばれて当然の“名二塁手”だった。
無口で寡黙だったことから、時代劇の主人公の名前「むっつり右門」などとも呼ばれたが、数々のプレーは実に“雄弁”だった。

監督としての「あと一歩」

監督としては2回にわたってドラゴンズを率いた。
第1期の1994年(平成6年)には長嶋茂雄監督率いるジャイアンツと、同率でシーズン最終試合を戦うという「10・8決戦」に臨んだ。槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄というエース級を惜しげもなく投入したジャイアンツに対し、あくまでもシーズン中と同じオーソドックスな選手起用をしたが、結果は敗退。優勝監督として名を残すことはできず、ライバル巨人に花を添える側になった。
第2期の2012年(平成24年)には、クライマックスシリーズであと1勝すれば日本シリーズ出場というところまでジャイアンツを追いつめながらも、土壇場で3連敗して敗退。あと一歩、あと一勝、選手時代の勝負強さが監督としては発揮できなかった。

竜のスター選手2人が去った

思えば2年前のちょうど今ごろ、高木守道さんと共に数々の熱戦を戦った星野仙一さんが逝った。ドラゴンズブルーのユニホームを着て、多くのファンを魅了し続けた投打のヒーロー2人、いずれも正月早々の旅立ちだった。
1月は睦月と呼ばれる。「睦み合う」「睦び月」として皆が集まり合うことが語源とも言われるが、ドラゴンズファンにとっては、またも淋しく悲しい別れに向き合うことになる、令和最初の睦月となった。

高木守道さん。わが愛しきモリミチ。どうか安らかに。
天国で大勢の観客に華麗なる「バックトス」を披露してやって下さい。その大歓声が今にも聞こえてきそうな気がして、別離の涙がとまらない。

【CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲  愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。

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