「都をどり」”博覧会の時代”と京都
1756年、初めての産業博覧会がロンドンで開催され、1798年には革命後のフランスで内国勧業博覧会、1851年にはロンドン万国博覧会が世界初の国際博として開催された。
日本と博覧会の関わりは、文久2年(1862年)のロンドン万国博覧会を遣欧使節団が視察し、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会では、幕府と薩摩・佐賀両藩が出品を競ったのである。
産業革命による科学と産業の発展と振興を背景に”博覧会の時代”といわれるほど、19世紀後半、各国で多く催された博覧会は、工芸と美術の祭典でもあった。殊に江戸時代以来の優れた技芸に支えられた工芸品は産業としての役割を担った。明治の、まさに「文化力」である。
さて、慶応4年(1868年)9月、年号は明治と改まり、明治天皇は東京へ行幸(ぎょうこう)、一旦京都へ還ったものの、翌年3月、再び東京へ向かい、秋には皇后も東京へ移る。京都の人は今でも、これは”遷都”ではないと思っている、ようだ。しかし、御所周辺にいた公家や政府関係者、宮廷の御用を承っていた商家などの多くも東京へ移り、幕末に7万戸あったという家屋も1万戸以上減少、にわかに京都は火が消えたようになってしまった。
そこで新政府、のちの2代京都府知事となった槇村正直は積極的に京都の産業の近代化を推し進め、京都復興を図っていった。さらに槇村が、京都が持つ魅力を内外に発信し勧業と結びつけようと、力を入れたのが「京都博覧会」である。明治4年(1871年)西本願寺で最初の博覧会を開催、直後に半官半民の「京都博覧会社」を設立、翌5年(1872年)「第1回京都博覧会」を開催した。
日本政府が初めて公式出品したのは明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会であり、政府主催で初めて催された全国規模の産業博覧会は明治10年(1877年)「第1回内国勧業博覧会」だった。京都博覧会がそれらに先んじていることは大いに注目されてよい。一見古格(こかく)を崩さないように見える京都の、したたかな進取の気性をこうしたところに見て取ることができる。
京都博覧会の「附博覧(つけはくらん)」として第1回が催されたのが「都をどり」の創始である。「附博覧」とは欧米の博覧会でよく行われていた娯楽性の高い、いわばステージイベントのことで、槇村から相談を受けた万亭(現 一力亭)の主人から振付を依頼されたのが、三世 井上八千代(1838~1938年)である。
今でも井上流は”踊り”ではなく”舞”といい、座敷での地歌舞が中心であったが、三世 八千代は、広い舞台で披露するため、当時、伊勢古市で参宮客の慰労のために行われていた、揃いの浴衣の舞い手たちが会場の左右から踊りながらすれ違う演出のある「伊勢音頭」を参考に、現在も見られるレビュー形式の”総踊り”を考案した。今も幕開きに登場する芸舞妓の揃いの藍地の着物は、その創始以来の決まりの意匠だという。
京都博覧会とともに、第1回「都をどり」も大成功のうちに終了し、「都をどり」はすでに明治時代に「チェリーダンス」と訳され、欧米でも広く知られた。祇園町と井上流の深い関係はこの時に始まる。
京舞とともに京都の伝統を象徴する茶道もまた新たな提案をしている。椅子とテーブル式の点前“立礼(りゅうれい)”である。これは第1回京都博覧会で、正座が難しい外国人客などのために、裏千家11代家元 玄々斎宗室(1810~1877年)が考案したものであった。現在では茶道の各流派で用いられ、よく見かける”茶道”の風景であるが、当時としては千利休以来の伝統の形を大きく変えたものであった。その後も生活が洋風化していく時代、伝統を巧みに変革させた「文化力」のひとつと言えるだろう。この立礼式の点前は、第1回京都博覧会で、玄々斎が考案した立礼卓「点茶盤」を用いて、現在に至るまで、祇園甲部の芸舞妓が来場客に抹茶を点てている。
19世紀後半、世界の”博覧会の時代”に「都をどり」や茶道が見せた、コンテンツとしての「文化力」、ともすればアーカイブのなかに保存されるものと思われがちな”伝統”だが、そのオリジナル性と時流の変化もいとわないアクティブな潜在力は、現代においても大いに学ぶところがあるのではないだろうか。
参考文献:
「祇園甲部と都をどり~あゆみと未来~」学校法人八坂女紅場学園
「京舞」京都新聞編集局編 淡交新社
「京舞つれづれ」井上八千代著 岩波書店
展覧会図録「世紀の祭典 万国博覧会の美術」日本経済新聞社ほか
展覧会図録「明治の万国博覧会」一般社団法人 霞会館
展覧会図録「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美―」青幻舎
【by CBCテレビ解説委員・北島徹也】