食卓の人気者「ケチャップ」、トマトの歴史と共にニッポンで歩んだ風味と開発史
日本で「ケチャップ」と言えば、おのずから「トマトケチャップ」が思い浮かぶほど、それはトマトという野菜と切っても切れない関係である。今や料理にも食卓にも欠かせない調味料「ケチャップ」の日本での歩みをたどる。
「ケチャップ」のルーツは、中国にあった「魚醤(ぎょしょう)」とされる。魚を発酵させた調味料で、かつて中国の南部では「ケ・ツィアプ」と呼ばれていた。それが語源。やがて、ヨーロッパそして米国に伝わり、18世紀にちょうどトマトという野菜が広がり始めていた米国で、小さく切ったトマトを煮つめて、塩や香辛料を加えた“赤い調味料”ができ上った。トマトケチャップである。ハンバーガーやフライドポテトなどには欠かせない人気の味になった。
トマトケチャップは、明治時代の文明開化の中で日本に持ち込まれたが、そのケチャップに目をつけた人がいた。1875年(明治8年)に愛知県知多郡(現・東海市)の農家に生まれた蟹江一太郎(かにえ・いちたろう)さんである。戦争が終わって、故郷に帰る時に、軍の上官から「実家が農家ならば、これからは西洋野菜を作るといい」と助言された。蟹江さんは、キャベツ、レタス、パセリなど、当時は珍しい西洋野菜作りを始めたが、その中に、当時は「赤茄子(あかなす)」と呼ばれていたトマトがあった。キャベツなどは徐々に売れ始めたが、トマトだけはまったく売れなかった。そんな時、海外ではトマトを生で食べるのではなく、加工して調味料として使っていることを知った。
蟹江さんのトマトケチャップ作りが始まった。トマトを煮て、小さく刻んで、それを裏ごしした。最初はドロドロの状態で、今で言うトマトピューレのようなものだった。蟹江さんは工場を立ち上げ、シナモン、ローリー、ナツメグなど海外から輸入した香辛料などを配合しながら、ケチャップ作りを進めた。しかし、最初にできたものの色は色鮮やかな深紅ではなく、くすんでしまっていた。そこで米国の加工技術をヒントにして殺菌方法を変えることにした。瓶に詰めた後に熱で殺菌するのではなく、作ったトマトケチャップを熱いまま瓶に詰めて、ふたをして密閉した。これによって、雑菌も入らず、トマトの赤い色をそのまま保つことができた。
もうひとつ問題が持ち上がった。瓶入りのケチャップは使いにくいという声が届くようになった。瓶からは取り出しにくく、瓶を逆さにして底をたたいて皿などに出さなければならなかった。そこで容器を工夫することにした。それはプラスチックの容器だった。「軟らかく、出しやすく、そして最後まで無駄なく使いきることができる」そんな容器を、メーカーと共同で研究して、ポリ塩化ビニリデンという素材にたどり着いた。
1966年(昭和41年)世界で初めて、日本独自のチューブ入りトマトケチャップが誕生した。キャップは片手で簡単に開けることができ、さらに次に出しやすいように容器を逆さに立てて保存することもできるようになった。チキンライス、オムライス、そしてナポリタンなど、トマトケチャップを使う料理も増え始め、「ケチャップ」は日本の食卓に欠かせないものとなった。
蟹江さんは、自分の会社のマークに「籠の目」模様を使おうと、五角の星を商標として申請した。「五角の星」は陸軍の象徴でもあり、西洋野菜を作るきっかけをくれた先輩への感謝を忘れないためだった。その後、三角形を2つ重ねて丸で囲ったマークを考案、これが籠の編み目に似ているということで、取引先から「カゴメ印」と呼ばれるようになり、社名も「カゴメ」とした。ブランドマークは、その後、トマトマークやアルファベット「KAGOME」に変わっていったが、「籠の目」は蟹江さんにとって、自分で作ったトマトを入れる籠を、そしてトマト作りを志した初心を忘れない原点だった。「カゴメ」のケチャップ作りは続く。有機トマトを使ったもの、ツブツブの食感を残すもの、様々なケチャップが開発され、「カゴメ」のシェアは50%を超えるまでになった。
米国で生まれたトマトケチャップを、食卓に欠かせない調味料に育て上げたニッポン。「ケチャップはじめて物語」のページには、日本の食文化の歩み、その確かな1ページが“色鮮やかなトマト色で”風味豊かに刻まれている。
【東西南北論説風(390) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。