江戸時代は観賞用だった!「トマトを人気野菜に育てたニッポン究極のアイデア
食卓を彩る真赤な「トマト」。ヨーロッパから日本にやって来た、この色鮮やかな野菜を日本人が食べるようになるまでには“壮大な”ドラマがあった。そんな「トマトはじめて物語」を紹介する。
「トマト」は、南米アンデス山脈の高原地帯がルーツと伝えられている。やがて、ペルーからヨーロッパに伝えられて、16世紀のイタリアでは、文献にその存在が登場している。
日本には江戸時代に、オランダから伝えられた。17世紀の半ば、四代将軍・徳川家綱のお抱え絵師だった狩野探幽の絵に「唐なすび」と名づけられた、トマトの様なものが描かれている。
しかし、この時代、「トマト」は食べるものではなかった。絵に描かれるように、あくまでも“観賞用”、観て楽しむものだった。それでも食べてみた人がいた。しかし、強烈な香りと、何よりも真っ赤な色に驚いて、“毒のある食べ物”として敬遠されていったようだ。そんな「トマト」は、明治時代になると、キャベツやタマネギなどと共に、欧米から再び日本にやって来た。今度は「赤茄子(あかなす)」と呼ばれたが、味はやはり日本人の味覚に合わず、来日する外国人向けの料理に添えられる存在だった。ちなみに現在でもトマトは「ナス科ナス属」の野菜である。
その「トマト」に目をつけた人物がいた。蟹江一太郎さん、愛知県知多郡(現在の東海市)の農家の息子だった。兵役から故郷に帰ってきた蟹江さんは西洋野菜に興味を持っていて、1899年(明治32年)自宅の庭に、海外から入ってきた野菜の種を蒔いた。その内のひとつに「赤茄子」があった。「トマト」である。蟹江さんは栽培した西洋野菜を売り始めたが、「トマト」だけは売れなかった。やはり、その真赤な色、そして食べた時の青臭さが理由だった。
そんな時に蟹江さんは「トマト」をそのまま食べるのではなく、西洋では加工して使っていると知って、トマトソースを作り始めた。そして、1903年(明治36年)に第1号のソースが誕生した。それがトマトケチャップの元となった。今で言う「トマトピューレ」のようなドロドロとしたものだった。3年後には工場を開き、蟹江さんは本格的に、トマトケチャップの生産に入った。1914年には「愛知トマトソース製造」という会社を設立、これが現在の「カゴメ株式会社」である。
トマトケチャップは大正時代に入って、洋食ブームの波に乗る。コロッケなどにウスターソースと一緒に添えられたり、後にオムライスとして進化するケチャップライスに使われたり、人々の味覚に「トマト」の味が浸透していく。「トマトの味って美味しいね!」
かつては観賞用だった「赤茄子」を、ケチャップに加工することで見事に野菜の主役級にまで育て上げた知恵とアイデア。「トマトはじめて物語」のページには、日本の“食文化”の歩み、その確かな1ページが赤く色づいている。
こうしてトマトそのものを食べる人も増えていった。ケチャップからの言わば“逆流”というユニークな広がりだった。今では、世界で8000種類、日本でもミニトマトやフルーツトマトなど100種類以上の品種が登場して、食卓に欠かせない野菜となっている。
【東西南北論説風(304) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。