ワインを飲んでいますか?国産ワイン作りに賭けた雪国の熱き情熱
ボージョレ・ヌーヴォーも解禁となり、クリスマスそして新年へと、1年の中でもワインと親しむ季節が到来した。国産ワインを造ろうと奮闘した先人たちの情熱の足跡をたどった。
かのヒポクラテスが褒めた
ワインの起源は、紀元前5000年にもさかのぼる。当時の遺跡から、ワインのために果汁を搾ったと思われる石器が見つかり、また古代エジプトの壁画にも道具が描かれていた。古代ギリシアで“医学の父”と言われたヒポクラテスは、ワインの解毒作用と疲労回復への効果を評価したと言う。やがて、ギリシア人が南フランスへ移住して、ワインはフランスに渡った。ブルゴーニュ、ボルドー、そしてシャンパーニュなど、フランスには続々とワイン産地が誕生した。
ザビエルと共に日本へ
戦国時代の1549年(天文8年)に日本にやって来た宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本に初めてワインを持ち込んだ人物だと伝えられている。キリスト教を布教したい土地の大名に、この西洋の葡萄酒を配った。江戸時代は鎖国が続いたが、開国を求めてアメリカから来日したペリー提督は、やはりワインを持参して、時の将軍である徳川家定に献上したと歴史は語る。ワインは再び、日本国内に浸透し始めた。
国産ワイン作りの道
明治時代になって、新政府は「殖産興業」の一環として、ぶどうの栽培とワインの醸造を奨励した。これによって、1870年、日本で最初のワイン作りが始まった。舞台は山梨県の甲府だった。その一方で、雪国からワイン造りに名乗りをあげた人物がいた。1868年(明治元年)越後(現・新潟県)に生まれた川上善兵衛さん。代々続く大地主で農家だった川上さんは、ある日、親の代から親交があった旧幕臣を訪れた。その人は、西郷隆盛との直談判によって江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟だった。勝の邸宅で出されたのが、海外から届いた葡萄酒、すなわちワインだった。故郷の越後は豪雪地帯、雪に悩まされながらの米作りが続いていたが、ぶどうは荒れ果てた土地でも栽培できることを知った川上さんは、ぶどう作りを決意する。
「ぶどうを使ったワインは、ひょっとしたら新しい産業として農民を助けることができるかもしれない」
岩の原葡萄園の熱き挑戦
1890年(明治23年)に、自宅の庭園を利用して「岩の原葡萄園」を開いた川上さん。海外から苗木を輸入して、植えては枯れて、枯れては植えてのくり返しの末、1922年(大正11年)に日本の風土に合った品種改良に取り組んで、作り上げたのが「マスカット・ベーリーA」というぶどう品種だった。これに「ブラック・クイーン」などが加わり合計22品種に成功、ここに国産ワインの記念すべき一歩が刻まれた。川上さんはワイン造りに、農業にはむしろ障害だった雪に目をつけた。ぶどうの発酵温度の調整や夏場の熟成庫の温度管理に、雪を利用するアイデアだった。「マスカット・ベーリーA」など、川上さんが育てたぶどうたちは、山梨県、長野県、そして北海道などに次々と国産ワインの産地に広がっていった。
国産ワイン作りの扉は開いた
1970年(昭和45年)の大阪万博をきっかけに、日本人の食生活にも欧米化の波が押し寄せて、ワインの消費量も増え始めた。そして、川上さんはじめ先人たちが粉骨砕身取り組んだ国産ワインも、欧米に負けない成長を続けた。現在はますます日本の風土に合った葡萄作りと製法、日本ならではの味も出せるようになっていると、長野県の蓼科高原にある老舗オーベルジュのソムリエが語ってくれた。日本のワインは海外のコンクールでも高い評価を得るようになった。洋食だけではなく、和食の“お供”としても愛され、今や魅力たっぷりのお酒に“熟成”した。
ヨーロッパから渡って来た葡萄の酒を、日本ならではの製法によって育て上げた人々の努力。それはまるで芳醇なワインのように味わい深い。「ワインはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“香って”いる。
【東西南北論説風(299) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。