川の暗渠化が東洋一の歓楽街になるきっかけだった!?歌舞伎町に残る川の痕跡から歴史を解明
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”をこよなく愛する道マニア歴14年の髙山英男さんが、東京・歌舞伎町にある“暗渠道”から歴史の紐を解きます。
歌舞伎町に川があった!?「蟹川」が暗渠になった「花道通り」
髙山さんと一緒に旅をするのは、芸人のビートきよしさん。2人が訪れたのは、新宿区歌舞伎町のメインストリート、通称「ゴジラロード」。
(道マニア・髙山英男さん)
「新宿は水と縁が深い。この辺りは昔、田んぼや畑だった」
歌舞伎町は現在、東洋一の歓楽街で有名ですが、新宿の中では開発が遅れ、明治後期までは雑木林が広がる今とは程遠い姿だったそう。そんな歌舞伎町にはかつて川が存在し、街中には今も川の痕跡が残っています。
東西に走る「花道通り」は地面が低くなっており、道路の傾斜から「低い場所には谷があった。そこに川があった証拠」と髙山さん。「花道通り」にはかつて「蟹川」が流れていたそうで、現在は暗渠化され、下水道に姿を変えています。
東京大空襲から復興 東洋一の歓楽街に発展
歌舞伎町の礎を築いたと言われるのが、実業家であり大地主だった峯島喜代(みねしまきよ)さん。もともと質屋を営んでいた峯島さんは不動産業に着手し、明治44年に歌舞伎町エリアの土地16000坪を購入。雑木林を伐採し、点在していた池を埋め立てて宅地化しました。しかし、当時の土木技術では「蟹川」の暗渠化が不可能だったため、今のような歓楽街までの発展には至らなかったそう。
そして、宅地化が進んだ昭和時代。学校や商業ビルが立ち並ぶようになり、住宅街として発展しました。そんな街並みも、東京大空襲によって一変してしまいます。
(道マニア・髙山英男さん)
「『歌舞伎町』を創ろうと、都市計画を出した男がいた」
終戦の年、昭和20年。歌舞伎町の前身、角筈(つのはず)一丁目北町の会長だった鈴木喜兵衛(きへい)さんが、街の復興に向けていち早く動きます。
多くの土地を所有していた大地主・峯島さんを説得し、先進的なエンターテインメントの街にするため尽力しました。
さらに、当時新宿2丁目で賑わっていた遊郭が歌舞伎町へ流れてきたことにより、街はさらに発展。当初は歌舞伎の劇場も建設予定でしたが、戦後の資材不足や財政難により頓挫。その計画の名残が、街の名前の由来となっています。
かつては森や川が存在し、発展から取り残されていた歌舞伎町。しかし、鈴木さんの信念と情熱により、東洋一の歓楽街へと発展を遂げました。
(道マニア・髙山英男さん)
「川の暗渠化は、歌舞伎町が東洋一の歓楽街になるきっかけの一つ。いろんな方々が知恵を出し合い、土地を出し合って造られたのが今の歌舞伎町」
暗渠化された「蟹川」は「神田川」に合流
2人は「蟹川」の暗渠道を辿り、東新宿駅の北東エリアにある住宅街を探索します。すると、銭湯や、井戸の痕跡が点在していることに気づきます。
(道マニア・髙山英男さん)
「銭湯は暗渠サインの一つ。排水するのに川や暗渠のそばにあるケースが多い」
さらに、「暗渠のそばに井戸があるケースが多い」と髙山さんは言います。地元の方に話を聞くと、綺麗な水質だった「蟹川」の水を銭湯に用いたり、井戸の水でスイカを冷やしたりしていたそう。
このエリアは江戸時代に砂利の採掘場となっていた場所で、髙山さん曰く、蟹川の砂利をとっていたのではないか、とのこと。かつて田んぼや湿地帯ばかりだった歌舞伎町では、「蟹川」がその農業用水として使われていたようで、その後、歌舞伎町の発展に伴い田畑は消滅。宅地化による生活排水で汚染が進んだ「蟹川」は暗渠化され、ひっそりとその姿を消しました。
暗渠となった「蟹川」は、さらに北を流れる「神田川」と合流。一休橋の近くでは、「蟹川」の水が流れ込んでいるのを確認することができます。
4月9日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より