焼失戸数1万軒超の大火災…「北の大火」で焼けた瓦礫の捨て場となった川 大阪の歴史を紐解く川の痕跡とは
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は、大阪府にある川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
建物の角に埋め込まれた「しじみばし」の石碑
「大阪はかつて、水運のために造られた川や堀がたくさんあって水の都だった」と言う道マニア。川が多く水運も発達していたことから、全国の食材や道具が集まっては流れる「天下の台所」と呼ばれました。
大阪市役所付近を流れる堂島川の北側には、「しじみばし」と書かれた石碑が建物の角に埋め込まれた姿で残されています。
江戸時代、船を通すために堂島川から分かれて「蜆川」が造られ、「しじみばし」が架けられていたそう。蜆がよく獲れたことから名付けられたとのことです。
瓦礫の処分に使われて消失 繫栄に身を捧げた「蜆川」
「しじみばし」の西側には、蜆川に架かっていた「櫻橋」の石碑も残っています。明治7年、大阪~神戸間の鉄道開通をきっかけに当時の大阪駅が置かれたとき、市街地から駅へ通じるメインルートに「櫻橋」が架かっており、「ステーション道」と呼ばれるほど重要な役割を果たしていました。
しかし明治42年(1909年)、大阪北部を襲った明治最大の火災「北の大火」が発生。焼失戸数1万軒を上回るほど甚大な被害をもたらし、瓦礫の処分場所として「蜆川」が利用されました。
その後、出入橋から東側(蜆川の上流部)が先に埋め立てられ、大正13年(1924年)に全てが埋め立てられて蜆川は姿を消しました。古くから水の都を支え、その繁栄に身を捧げた「蜆川」の歴史は今もなお、多くの人々に語り継がれています。
兵糧の運搬にも使われた「猫間川」
大阪城の東側にはかつて「猫間川(ねこまがわ)」が流れており、城の堀にも使われていたそう。猫間川抽水所から南下すると、川にまつわる旧町名の由来が書かれた継承碑をはじめ、欄干や橋の名前が書かれた石碑などが残っています。
「猫間川」には、「石橋」と名付けられた当時では珍しい石造りの橋が架かっていたそうで、大阪城の石垣を使って造られたと言われています。また、「大坂の陣」の激戦地だった玉造駅付近は、戦の際に「猫間川」を利用して兵糧を運んだことが記録されています。
12月12日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より