完成間近で崩落した「数坂隧道」 地図にのらず“幻の道”となった群馬県の廃道とは
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は、群馬県にある“地図にのらなかった幻の道”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)※廃道は許可を得た上で撮影しています。むやみに立ち入らないでください。
崩落で開通を断念… 完成するはずだった「数坂隧道」
江戸時代以前から、沼田市と福島県会津若松市をつなぐ重要な道として使われた「会津街道」。当時、峠を越えるルートは「栗生(くりゅう)峠」「数坂(かっさか)峠」「椎坂(しいさか)峠」の3つ存在し、中でも「数坂峠」は人の往来が多かったそう。
明治時代に入ると、自動車や馬車が普及。当時の東村(あずまむら=現在の沼田市)村長・小林勘三郎さんは、車道を造れば物流も発展して町が栄えると考え、私財を投じて新道を開削する工事の中心人物となって動くことに。
そして、自動車や馬車が通れるようにと平坦ラインを造り、山を穿って「数坂隧道」を建設。しかし、「数坂隧道」は完成間際に崩落事故が起こり、復旧不可能になったため開通を断念。「数坂隧道」は地図にのることがなく、“幻の道”となったそう。
山中には、まるで神殿のようなデザインが美しい石造りの「数坂隧道」のほか、苔に覆われた扁額や切り出された石も残っており、もの寂しさを感じさせます。
道造りに人生を賭けた村長の想いが詰まった「栗生隧道」
「数坂隧道」が崩落した後、当時の村長・小林さんは諦めずに「栗生峠」に新道を造ることを決意。多額の私財を投じ、大正9年に悲願の「栗生隧道」を完成させました。
しかし、小林さんは「栗生隧道」が完成する数か月前に亡くなり、新しい車道を見ることができなかったと道マニアは言います。
栗生峠に完成した新道は、その開通式が当時の新聞の記事になるほど、地元の人たちにとって重要な道でした。この新道開削の中心人物であった小林勘三郎さんは、功労者として讃えられ、感謝状も贈られたそうです。
10月24日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より