東京・銀座周辺に「橋」のつく地名が多いのはなぜ!?街中にある“川の痕跡”の見つけ方
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は、東京都銀座にある“暗渠道(あんきょみち)=もともと流れていた川にフタをして造られた道”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
江戸時代は海だった!銀座周辺の交通事情
江戸時代の頃、江戸前島を海が囲んでいて銀座周辺は海でした。その後、周辺の海が埋め立てられ、現在の銀座の土台が完成。各所に物資を船で運ぶための川が造られました。
しかし、車や鉄道の普及で船便は廃止。のちに、川の大半は高速道路として生まれ変わりました。新尾張橋の下を通る首都高速道路も、かつては銀座を南北に流れる「築地川」だったそうです。
「数寄屋橋」に残る川の痕跡“暗渠サイン”
「数寄屋橋」の交差点付近には、かつて「外堀川」が流れており、寛永6年(1629年)に数寄屋橋が架けられました。しかし、昭和33年(1958年)、高速道路の建設にあわせて撤去され、外堀川は埋め立てられました。
関東大震災を教訓に、大きな橋のそばに公園・公衆トイレ・交番・防災倉庫を設置。災害に備えた街づくりをした経緯があると、道マニアは言います。数寄屋橋の交差点付近には、数寄屋橋公園や橋の遺材が使われた石碑、かつて橋があった頃の写真が飾られているスポットもあり、多くの川の痕跡“暗渠サイン”が見られます。
石柱の記念碑が目印!寄付で造られた「新幸橋」の痕跡
銀座5丁目の高架下にある飲食店街「コリドー街」も、外堀川が流れていた場所。その近くの交差点には、「新幸橋(しんさいわいばし)」と書かれた石柱の記念碑があります。
関東大震災が起きた際、銀座に住む人が川の向こう側にある日比谷公園に避難しようとしましたが、橋がなく逃げ遅れてしまったため、それを教訓に周りの企業が寄付をして新幸橋を造ったそう。川の埋め立てに伴って「新幸橋」は廃橋となり、その後に記念碑が建てられました。
「三十間堀」と「八通八橋」が埋められた暗渠道
銀座8丁目には、幅が三十間(約55m)もある大きな川「三十間堀(さんじっけんぼり)」が流れていました。その付近には暗渠サインである公衆トイレのほか、埋め立てに使用された当時の堀の石垣が今も残されています。
また、戦争の瓦礫を処理するために川が埋められ、架かっていた橋もそのまま埋まっているのだとか。当時使われていた「八通八橋(やつやばし)」の遺構も、地面が盛り上がっている下に埋まっているそうです。
欄干が残る「竜閑橋」の痕跡
銀座から徒歩30分の場所にあるオフィス街・神田には、かつて「竜閑川(りゅうかんがわ)」が流れており、そこには「竜閑橋(りゅうかんばし)」が架かっていました。
昭和25年(1950年)に廃橋となりましたが、竜閑橋交差点の近くには今も欄干(らんかん)が展示されています。
その脇にある細い路地は、竜閑川の暗渠道。辿った先には、暗渠サインである公園・公衆トイレ・防災倉庫があります。
他にも、新尾張橋・京橋・新橋など、“橋”のつくスポットが各所に存在します。みなさんも、いつもと違う視点で街を散策してみてはいかがでしょうか。
5月16日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より