CBC web | 中部日本放送株式会社 / CBCテレビ / CBCラジオ

MENU

信長の孫を襲った悲劇。岐阜城が一日で落城

信長の孫を襲った悲劇。岐阜城が一日で落城

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。8月29日の放送では織田信長・前田利家・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、1600年(慶長5年)8月23日に岐阜城が落城したこと取り上げました。

関連リンク

この記事をradiko(ラジコ)で聴く

岐阜城が落城した日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。
いくつかある話題の中で取り上げたのは、1600年8月23日に岐阜城が落城した件について。

織田信長「これは儂が死んでからじゃから、かなり後のことじゃな」

前田利家「信長様が死去して約20年、関ヶ原の戦いの前哨戦であるがの、城主が信長様の孫、三法師様でござる」

今年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも信長亡き後、誰が織田家を継ぐのか話し合いが持たれますが(清洲会議)、そこで豊臣秀吉が擁立したのが嫡孫であった三法師でした。

信長の長男である織田信忠の長男だったこともあり、跡取りに相応しいのではと推されたのです。

孫の名前に物申す!

1600年の岐阜城落城の折には、織田信長の孫が城を落とされる側となる皮肉。信長も「どうしてこんなことになったんじゃ」と嘆きつつ、不満を口にします。

信長「そもそも三法師の名前が気に食わん。三法師に秀信という名前が付いておるじゃろ?なぜ儂の『信』が下にさがっておる?(豊臣)秀吉の『秀』の下じゃ。こやつ、とんでもないことをやっておるな。秀吉を呼んで参れっ!」

十吾「この場に秀吉様がいらっしゃらないのが残念でございますな(笑)」

三法師が元服した際、諱である秀信の「秀」は、当時すでに従一位関白太政大臣の座に就き、織田家を超えていた豊臣秀吉から与えられたもの。信長を超えたという意も込めて、わざとこのような形にしたとも言われています。
かつて家臣だった秀吉が、本能寺の変の後で天下人となったことを暗に示しています。

攻めたのは信長の乳兄弟の息子

さらに織田信長が気に食わないとした点が、岐阜城を攻めたのが池田輝政だったこと。輝政は池田恒興の次男です。

利家「信長様と同じく育ったのが恒興殿ですな」

信長「儂の育ての母(乳母)が、恒興の母だったんじゃ。恒興の母も泣いておるぞ、孫の代でこんなことになるとはな」

利家「拙者も1600年であれば、既に死んでおりましたゆえ」

信長「要は又左(前田利家の諱)のせいじゃな」

岐阜城の落城について利家が死去したせい、というのはあながち間違いでもありません。
1600年の関ヶ原の戦いを前に城主・織田秀信が西軍につき、東軍の福島正則や池田輝政らに攻められたことが直接の理由ですが、1598年の秀吉死去後、徳川家康の台頭を抑える存在だった五大老の利家が翌年に亡くなります。

これにより豊臣政権内の均衡が崩れ、家康の影響力が急速に強まり、石田三成との対立が激化し、関ヶ原の戦いへと向かっていきました。

利家の死によって政治の均衡が崩れ、家康の天下取りが進んだことを考えれば、岐阜城落城へ続く大きな流れをつくった一因とはいえるでしょう。

ちなみに池田輝政は、実はかつて岐阜城主を務めた人物でもあります。そのため、城の構造や弱点を熟知していました。
1600年に家康側の東軍に与して大軍を率いて攻め、兵力差もあって岐阜城はわずか一日で落城。歴史の儚さを象徴するような出来事だったと言えそうです。
(葉月智世)
 

この記事の画像を見る

オススメ関連コンテンツ

PAGE TOP