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なぜ?「姉川の戦い」にいた2メートル超えの大男

なぜ?「姉川の戦い」にいた2メートル超えの大男

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。7月4日の放送では、豊臣秀吉・前田利家・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、「姉川の戦い」について取り上げました。

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姉川の戦いが起こった日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1570年6月28日に起こった「姉川の戦い」について。

豊臣秀吉「姉川の戦い、皆も一度は聞いたことがあるんじゃないかの?あと寺子屋の教科書なんかにもな、さらっと載っておるんじゃ。ではどういう戦いであったのか話そうぞ」

この戦いは、織田信長と浅井・朝倉連合軍との戦いです。
北近江を治めていた浅井家は、信長と同盟を結んでいました。その証として、浅井長政に嫁いだのが、戦国の美女の一人として知られる信長の妹・お市の方。

婚姻関係を結び、義弟となっていた浅井長政が裏切るとは思っていなかったところに、浅井家が突如、朝倉家に与して寝返ったことで起こった戦いです。

姉川の戦いの意味

姉川の戦いを織田信長と浅井・朝倉連合軍の最終決戦のように思っている人もいるかもしれませんが、これはいわば前哨戦でした。

前田利家「数万の軍が激突した大きな戦いじゃったんだけども、この戦いでは信長様は見事勝利されておる。しかし、その後も浅井・朝倉家は長きに渡って信長様を苦しめ続けた」

十吾「では姉川の戦いは、長きにわたって続いた対立の中のひとつの戦いであったと?」

秀吉「姉川の戦いが終わった後に、朝倉家の本拠地である越前の一乗谷を、さらに北近江の浅井長政の小谷城を攻めて両方滅ぼしておる」

ちなみに、秀吉曰く「この頃の儂はまだ豊臣姓でも羽柴姓でもなく、木下藤吉郎じゃった」と話す通り、織田家家中では前田利家と並び武功(実績)を積んでいた時期でもあります。

朝倉軍にいた2メートル越えの大男の正体

豊臣秀吉は織田家の中で軍を率いていましたが、前田利家は柴田勝家の与力(主将を補佐するために、一時的または継続的に配属された武将)の立場でした。

利家「儂は信長様の側近の精鋭陣としての立場じゃった故、表で戦うのが儂の役目出会った。懐かしいと思い出しておったがの。誤解して欲しくないのは、確かに勝ったが簡単ではなかったんじゃ」

秀吉「最初は(織田軍が)逆に押されておったのよ」

織田信長の本拠が尾張・美濃であるのに対し、姉川の戦いが起こったのは北近江。
浅井家の本拠地であり、別の形で同盟を結んでいた朝倉家にとっても近いため地の利は浅井・朝倉連合軍にありました。

利家「浅井・朝倉連合軍にはどえらく強い武将がたくさんおったんじゃ。その最たる例が、朝倉家に仕えていた真柄直隆(まがら なおたか)じゃ」

当時の成人男性の中では6尺(約180cm程度)と背が高かった利家よりもさらに大柄で現世で言えば2メートルを超える大男。ちなみに秀吉は小柄だったとも、当時の平均程度(155~160cm程度)はあったとも言われています。

真柄直隆は、自分の背丈よりも長い大太刀「太郎太刀(たろうたち)」の使い手でも有名。大柄な武将が大太刀を振り回すとなれば、多くの武士が恐れるところです。

真柄直隆と一騎打ちで戦ったのが、徳川家康の重臣である本多忠勝という言い伝えがあり、勝ったとされるのは忠勝。確かにこの戦いで真柄直隆は討ち死にしていますが、この一騎打ちは後世の作り話とも言われています。

どちらにしても、姉川の戦いは織田信長にとっても浅井・朝倉連合軍にとっても、多くの死傷者を出した激闘でした。
(葉月智世)
 

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