鉄路の旅を楽しむレストラン「食堂車」の思い出~忘れられない海老フライの味
鉄道の旅を彩ったもののひとつに「食堂車」がある。今はほとんど姿を消してしまったが、列車の一車両がレストランになっているもので、言わば“鉄道のレストラン”だった。線路を走る旅をしながら、そこで飲んだり食べたり、旅を魅力たっぷりにする特別な車両だった。
食堂車の誕生
「食堂車」が日本の鉄道に登場したのは、1899年(明治32年)のこと、私鉄の山陽鉄道(現在のJR山陽本線)だった。京都と山口県の防府市を走っていた急行電車で、食堂車は一等車に連結されて、当初はその旅客専用だったそうだ。やがて、どの車両の乗客でも利用できるようになり、洋食だけだったメニューに和食も加わった。戦争中は食糧事情の悪化から姿を消したが、戦後に復活。長距離列車の旅を楽しむ人にとって、人気のスペースとなって、空席待ちの行列ができたという記録もある。
初めての食堂車の思い出
私が生まれて初めて「食堂車」を体験したのは、1971年(昭和46年)のことだった。住んでいる名古屋から、信州の蓼科高原へ家族旅行に行くときのことである。当時はまだ国鉄の中央線「特急しなの」の車内だった。朝食を取ってきたにもかかわらず、午前の早い時間に、親に食堂車に連れて行かれ、海老フライを食べた。初めての家族旅行だったこともあって、親も奮発してくれたのだろう。その美味しさと共に、生まれて初めての「食堂車」は、まさに別世界だったという思い出がある。
ウエイターもいた!
通路の両側に、ちゃんとテーブルと椅子が置かれていて、向かい合わせに座って食事ができた。食堂車には、きちんとネクタイを締めたウエイターがいた。席につくと、レストランと同じように、水の入ったグラスとメニュー表が届けられた。もちろん、注文した料理は、熱々のものが席に運ばれてきた。ビールなどのアルコールもあった。列車で移動しながら、こうして駅弁とは違う食事ができることに衝撃を受けた。だからこそ、食堂車の記憶は鮮明なのであろう。
ビジネスにも利用
その後、東海道新幹線にも「ビュッフェ車」が導入された。特に、1985年(昭和60年)にお目見えした2階建て新幹線は、車窓の風景を楽しみながら食事ができる、人気の車両だった。ビジネスマンは、軽食を取りながらコーヒーを飲むほか、車内での打ち合わせスペースとしても利用していた。列車の中にある、いわば「異空間」だった。
姿を消した食堂車
そんな食堂車にも時代の波が訪れる。地上の駅構内にあるレストランに比べれば、明らかに割高である。狭い厨房では、メニューの品数にも限りがあった。さらに、食堂車で働くスタッフの労働環境は厳しく、人手不足になっていった。次第に食堂車を備えた列車の数も減り始め、在来線のブルートレインでは1993年(平成5年)に、新幹線でも2000年(平成12年)に、食堂車は姿を消した。
車内販売も姿を消す
食堂車と同じように、列車内での飲食を支えてきたワゴン販売も、東海道新幹線が2023年(令和5年)10月にサービスを終了した。駅の売店やコンビニで、駅弁や飲み物を買ってから列車に乗り込む客が増えたことが大きな理由である。列車内で食事を楽しむという旅は、豪華な観光列車に委ねられるようになった。食堂車も姿を消して、車内販売も終了、旅は「移動する」という目的が全面に出てきて、時代に合わせてなのか合理的なものになりつつある。
建設中のリニア中央新幹線も、その大半はトンネルの中を走る。さらに移動時間は格段に短くなる。車窓の風景を楽しみながら、のんびりと食事を楽しむという“鉄路の旅”は、「食堂車」の姿と共に、すでに歴史の中のものになろうとしている。でも、あの海老フライの味だけは、“鉄道のレストラン”の特別な空気と共に、ずっと記憶に刻まれている懐かしい思い出である。
【東西南北論説風(477) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※『北辻利寿のニッポン記憶遺産』
昭和、平成、令和と時代が移りゆく中で、姿を消したもの、数が少なくなったもの、形を変えたもの、でも、心に留めておきたいものを、独自の視点で「ニッポン記憶遺産」として紹介するコラムです。
CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー(毎週水曜日)でもご紹介しています。