どの町にも「映画館」があった時代~“2本立ての入れ替えなし”懐かしき文化の記憶
昔、日本全国各地の町には、小さいながら映画館があった。今でこそ、映画の上映はシネコン(シネマコンプレックス)が主流で、それは交通が便利な大きな駅の近くや、郊外にある大型駐車場を備えたショッピングモールの中などにある。しかし、戦前から戦後にかけては、小さな町にも小さいながらの映画館があった。
名作『砂の器』にも登場
松本清張の代表的な小説『砂の器』で、殺人事件を捜査する刑事が、容疑者にたどり着くヒントに出合ったのは、三重県伊勢市にある映画館のロビーという設定だった。物語では「町の映画館」が大きな役割を果たした。小説が映画化された時にも、そのくだりは忠実に描かれていた。丹波哲郎さん演じるベテラン刑事が、捜査出張中にふと立ち寄るというシチュエーションなのだが、それだけ映画館は、地域に浸透していたのであろう。
こんなスタイルだった
映画館に、映画配給会社の名前がついていたことも印象深い。「〇〇大映」「〇〇松竹」「〇〇日活」「〇〇東宝」など、それぞれ直轄の映画館だった。名古屋市内の下町を例に取ると、席の数は、50から100ぐらいの規模だった。座席はフラットな平面で、シネコンのような段差もなかったため、前の席に座高が高い人が座ると、スクリーンの一部が隠れてしまい、映画を観るのがつらかったこともある。
二本立て上映は当たり前
そんな「町の映画館」では、交互に違う映画を上映していた。昭和の時代は「二本立て」が多かったが、「三本立て」という上映もあった。入れ替え制ではなかったため、何度も観たいと思えば、一日中、映画館の席に座っていることができた。わざわざ交通機関を使って行く距離でもないため、自宅から弁当や飲み物を持参して、ひがな一日を映画館で過ごす人もいた。ただ、逆に予約席などはなかったため、人気のある映画の場合、日曜日や祝日には、立ち見をしないといけない場合もあった。
街角にはポスターがあった
街角のところどころには、上映中の映画のポスターが貼られていた。二本立ての場合は、2つの映画のポスターを縦に並べて貼った立て看板が作られて、電柱に針金などで括りつけられていた風景も懐かしい。「総天然色」「オールナイト上映」などの宣伝文句も踊っていた。映画館の売店では、近所のおばさんがアルバイトをしていたりするなど「これぞ地元!」という地域色にあふれていた。
シネコンの波に押されて
やがて米国でシネコンが誕生して、そこには、ひとつのフロアに大小さまざまな複数のスクリーンが入った。上映映画の人気度によって、スクリーンの大きさを日ごとに替える融通性があり、それは収益面では、大きな効果をもたらした。決まった映画を、決まった期間、契約に基づいてずっと上映し続けなければならない「町の映画館」は、シネコンに客を奪われて、1980年代になると、一気にその数を減らしていった。
ネット配信によって、パソコン、タブレット、さらに携帯電話でさえ、いつでもどこでも、気軽に映画が観られる時代になった。それはとても便利であり、映画製作の大きなパワーになっていることは間違いない。ただ「記憶遺産」というテーマを頭においたときに、小さいながらもそれぞれの“町の文化”を支えてくれていた、小さな「町の映画館」の思い出を、そこに刻みたいと思ってしまう。
【東西南北論説風(474) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※『北辻利寿のニッポン記憶遺産』
昭和、平成、令和と時代が移りゆく中で、姿を消したもの、数が少なくなったもの、形を変えたもの、でも、心に留めておきたいものを、独自の視点で「ニッポン記憶遺産」として紹介するコラムです。
CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー(毎週水曜日)でもご紹介しています。