世界を驚かせた日本製の「ストッキング」~履き心地を追求した技術力の歩み
実は、もともとは男性が履いていた。「ストッキング」は、中世ヨーロッパで、貴族の男性たちの「ホース」と呼ばれた長靴下がルーツとされる。ジャケットに短いパンツ、その下に、膝まであるシルクの高級靴下だった。その後、女性たちも履くようになり、20世紀の米国で、ナイロン製のストッキングが作られた。値段も手ごろになったストッキングは、世界へ一気に広がっていった。
やがて、日本にもストッキングが入ってきて、国内での生産も始まった。脚の形に平たく編んだ布地の端と端を、縫い合わせていく。このため、後ろ側には、糸の縫い目が入っていた。履いている時にズレていったり、肌触りに違和感があったり、その継ぎ目は邪魔な存在でもあった。
神奈川県海老名市に、1947年(昭和22年)に、堀禄助(ほり・ろくすけ)さんが創業した「厚木編織株式会社」。もともと生糸の研究者であった堀さんは、靴下やメリヤスの肌着や、捕鯨用のロープなど幅広い製品を作っていた。そんな中で、ロープの素材として使っていたナイロンと出合う。それをきっかけに、ナイロンを使って、ストッキングを作ることになった。
「これからの日本には、女性たちが美しい服を自由に楽しむ時代がやって来る」
当時、ストッキングを履く女性たちは、歩く度に、縫い目を気にしていた。「何とか縫い目をなくすことはできないだろうか」。堀さんがめざしたもの、それは“縫い目のない”ストッキング、すなわち「シームレスストッキング」だった。
堀さんは、長靴下用の丸編み機を応用することを考えた。最初から、丸い円筒の形で“太腿”部分から編み上げていき、最後に“つま先”部分を縫い合わせて完成させる。つまり、縫い目は“つま先”にしかない。機械を改良して、ストッキング用の編み機を開発した。生地の肌触りを心地よくするために、普通の靴下を編むのには320本だった針の数を400本に増やし、編み目をより細やかにした。さらに、糸にも工夫した。ナイロンの糸をそのまま編むと、光ったり滑ったりしたため、あらかじめ糸をウェーブ状に加工してから編むことにした。1955年(昭和30年)、厚木(アツギ)の「シームレスストッキング」が完成した。そこには、長い間、履く人を悩ませていた「縫い目」はなかった。
しかし、この画期的なストッキングが売れない。実は、縫い目がないために「ストッキングを履いていないように見えて、恥ずかしい」というのが理由だった。昭和30年代の日本社会は、まだそんな空気だったのである。シームレスストッキングは、海外へ輸出されていった。日本独自の細やかな縫製は、海外で高い評価を受けて、商品は大ヒットした。その後、日本でもようやく、シームレスストッキングの魅力が知られ始めた。アツギでは、1足300~350円で販売した。当時としては高級品だったため、穴が空いて綻びが広がる「伝線」を治す修理店まで百貨店などにお目見えしたという逸話もある。
その後、腰からつま先までつながった「パンティストッキング」が米国で開発されて、アツギでも、パンティ部分の糸をさらに改良するなどして、1968年(昭和43年)に、国産初のパンティストッキングを発売した。この頃、英国人モデルのツイッギーさんが、ミニスカート姿で登場。若い女性たちにミニスカートブームが巻き起こり、パンティストッキングは、時代のヒット商品となった。
アツギは、1979年(昭和54年)に、世界初となる画期的なストッキングを開発した。それまでは、3~4日履くと、足首や膝の部分に“たるみ”が出てしまった。これをなくすために、伸縮性の高いポリウレタンをナイロンで巻きつけた、まったく新しい糸を作り、これでストッキングを編んだ。この新しい「フルサポーティパンティストッキング」は、脚のフィット感に優れていて、ずり落ちたりせず、履いている時の“たるみ”も気にならなくなった。現在、ストッキングのほとんどが、このサポートストッキングを応用したものだ。女性たちの脚を守り、そして、より魅力的に見せる。日本で大きく進化したストッキングは、今や欠かせないファッションアイテムに成長した。
「ストッキングはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“美しい脚のラインと共に”誇らしげに刻まれている。
【東西南北論説風(437) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。