まさに世界革命!「消せるボールペン」登場の衝撃~ボールペンはじめて物語(2)
戦後、進駐軍の米兵によって日本に持ち込まれた「ボールペン」は、ニッポンの開発技術によって、鉛筆型、水性インク、3色ボールペン、ゲルインクと目覚ましい進化を遂げてきた。そして、ついに世界をあっと驚かすボールペンが誕生することになる。
戦後まもない1948年(昭和23年)、愛知県名古屋市昭和区に、パイロット万年筆のインクを製造する工場ができた。2年後には「パイロットインキ」という会社名になって独立、グループの一角を担う。そんな中に、岐阜大学で工業化学を専攻した中筋憲一(なかすじ・のりかず)さんがいた。何か新しいインクはできないかと考え続けていた、開発魂あふれる中筋さん。名古屋市郊外にある紅葉の名所、足助香嵐渓を訪れた時に、ひとつのアイデアが閃いた。夏は緑、秋が深まると真っ赤に染まる木々、色が変化するインクを作ることはできないだろうか?
早速「熱によって色が変わるインク」の開発に乗り出した。色のもと(色の成分を持つ無色の薬品)、発色成分(色を出す薬品)、そして温度によって、この2つをくっつかせたり離れさせたりする薬品。この3種類の薬品を小さなカプセルに入れて、温度をいろいろ変えてみた。ドライヤーで温めたり、冷蔵庫で冷やしてみたり、こうして出来上がったインクは、高温と低温で、それぞれに色が変わった。熱で色が変わるインクが完成した。このインクは、ラテン語で「変化する」を意味する「メタモルフォーゼ」という言葉から「メタモカラー」と名づけられた。1975年(昭和50年)には特許も申請された。
ところが、この画期的なインクは会社の主力商品である万年筆に使われることはなかった。筆記具というものは、何かを“書き残す”道具。温度によって色が変わってしまっては、その役割を果たせない。パイロットという万年筆会社が開発した「メタモカラー」は、最初はペンとはまったく別の商品に使われることになった。
1976年発売の「魔法のコップ」は、花咲か爺さんと枯れ木のイラストが描かれたコップで、冷たい水を注ぐと枯れ木に花が咲いた。1985年発売の「まほうのフライDEこんがり」は、無色の衣をつけた海老を冷水の入った鍋に入れると、こんがり黄金色に変わった。「メタモカラー」の活躍舞台は玩具(おもちゃ)だったのである。
そんな時、グループ外国人幹部のひと言によって新たな扉が開いたのだった。パイロットコーポレーションの欧州代表であるフランス人が、開発チームに問いかけた。
「ある色から別な色に変えるのではなく、ある色から透明にすることはできないか?」
それは「“消せるボールペン”は作れないか?」という意味だった。背景にあったもの、それは日本とヨーロッパの文化の違いだった。鉛筆を使う日本と違って、ヨーロッパでは、小学生も万年筆やボールペンでノートに字を書いていた。書き間違えた場合、鉛筆ならば消しゴムで消せる。しかしボールペンなどはそうはいかない。棒線を引いたり、インク消しの薬品を使ったり、子どもたちにとっても修正する作業は大変だった。「消せるボールペンがあればいい」という日本人には思いつかない驚きの発想だった。
温度によって字が消えるボールペンを作るためには、色が変化する温度差を広げる必要があった。そうでないと、消した文字が簡単に浮かび上がってしまう。ボールペンの背に付けたラバー、いわゆる“消しゴム”でこすり、その摩擦熱で60度以上になるとインクは透明になった。マイナス20度まで冷やさなければ、消えた文字が再び浮かび上がらないよう、温度差は実に85度にした。こうして「消せるボールペン」が完成した。英語の「摩擦(FRICTION)」から、商品名は「FRIXION(フリクション)」と決めた。
「フリクションボール」は、2006年1月、フランスをはじめヨーロッパ各国の店頭に並んだ。発売と同時に圧倒的な人気を集め、1年間で750万本を売り上げた。この人気を受けて、翌年には日本でも発売された。色の種類も増えて、若者を中心に大人気の筆記具になった。中筋さんたちが「メタモカラー」というインクを開発してから、実に30年もの歳月が流れていた。「消せるボールペン」は、2019年までに全世界で30億本を売り上げた。
世界中をあっと驚かせた“逆転の発想”によって生まれた「消せるボールペン」。「ボールペンはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“ここだけは決して消えることのないインクで”記されている。
【東西南北論説風(375) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。