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日本製の「鉛筆」はこうして誕生した!開発にかけた10年の歳月と熱き思い

日本製の「鉛筆」はこうして誕生した!開発にかけた10年の歳月と熱き思い
「現在のuni鉛筆」提供:三菱鉛筆株式会社
「現在のuni鉛筆」提供:三菱鉛筆株式会社

「鉛筆」の歴史は16世紀の英国から始まった。鉱山で見つかった良質の黒鉛を筆記具として使ったと伝えられる。日本には17世紀には持ち込まれていた。徳川家康の遺品の中に、およそ6センチの「鉛筆」がある。芯はメキシコ産で、どうやらスペインあたりの国が江戸幕府に献上したと見られている。この「鉛筆」、日本での本格的な歩みは明治時代に始まった。

明治維新を迎え、文明開化の波の中で「鉛筆」が使われ始める。しかし主にドイツからの輸入品で、かなり高価だったため、なかなか一般には普及しなかった。そんな中、1878年(明治11年)、ひとりの男がフランスのパリに向かった。佐賀県出身の眞崎仁六さん。東京の貿易会社に勤めていた眞崎さんは当時29歳、出張で出かけた万国博覧会の会場で展示されていた外国製の鉛筆と出会った。眞崎さんは、書きやすく便利な、その筆記具にすっかり魅了される。日本でも、この鉛筆を誰もが手軽に使えるようにしたい。眞崎さんは決意する。「よし、鉛筆を作ろう!」

「眞崎仁六さん」提供:三菱鉛筆株式会社

帰国した眞崎さんは、パリで見た「鉛筆」の面影を思い描きながら、独自に鉛筆作りを始めた。最初は「芯」の研究だった。鉛筆の芯は、黒鉛と粘土を混ぜ合わせて固めたものと、パリで知識を得ていた。昼間は貿易会社で働き、夜は乳鉢に黒鉛と粘土を入れて調合、練って、延ばして、叩いてそして固めて、芯作りに取り組んだ。

しかし、最初に出来上がった「芯」は、堅すぎたり、逆に柔らかすぎたり、もろくてすぐに折れたり、なかなか字を書くことはできなかった。肝心なのは材料の質だと気づいた眞崎さんは、理想の黒鉛と粘土を求めて日本国内を東へ西へ。その結果、鹿児島県産の黒鉛、そして栃木県産の粘土、この組み合わせこそ自分がめざす最高の芯を作るものだと確信した。ここまで5年の歳月が過ぎた。

芯に続いては、それを包み込む木材「軸」である。削りやすく、その上、丈夫で曲がりにくい材木が必要だった。自宅に木箱で荷物が届いた時は、箱を壊してその木が「軸」として適さないか試すまでした日々。そして出会ったのが、北海道で生息するイチイ科の針葉樹アララギ。板で芯を挟んで裁断していく機械も作った。この軸探しと機械作りに費やした歳月は、やはり5年。芯と合わせて10年が過ぎていた。

「当時の鉛筆工場」提供:三菱鉛筆株式会社

眞崎さんは、1887年(明治20年)に「眞崎鉛筆製造所」を設立し、本格的な国産鉛筆の製造をスタートした。当時、機械の動力は水車だった。この「眞崎鉛筆製造所」こそ、現在の「三菱鉛筆株式会社」である。

三菱鉛筆は、国内だけでなく、世界に通用する「鉛筆」作りをめざす。眞崎さんが最初に得た極意「鉛筆はまず良質な芯」を追求し続けた。黒鉛と混ぜ合わせる粘土の微粒子をより繊細に、より均一化することによって、一層滑らかな書き味を実現したと三菱鉛筆の社史は伝える。そして1958年(昭和33年)に出来上がったのが「uni(ユニ)」。発売当時は1本50円で、当時のコーヒー1杯と同じ値段の高級品だったが、ワインレッドの鉛筆は、一躍人気の「鉛筆」ブランドになった。「uni」のワインカラーは現在も変わらず、歴史と伝統の光を放っている。

「初期のuni鉛筆」提供:三菱鉛筆株式会社

理想の芯と材木を求めた10年の歳月が、魂のこもった国産鉛筆を生み出した。「鉛筆はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“真っ黒な芯”でしっかりと書き込まれている。

【東西南北論説風(317)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】 ※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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