世界文化遺産に選ばれた地へ・・・遠藤周作「沈黙」の舞台へ霧の旅
長崎市の外海(そとめ)地区にある「遠藤周作文学館」を訪れたことがある。
長崎駅前から路線バスを乗り継いでの旅だった。途中のターミナルでバスを乗り換え、海岸沿いを走る曲がりくねった道路の左側に文学館の建物があった。バスの待ち時間を入れると片道およそ1時間半の長い道のりだった。
建物の背景には写真で何度も見た“絶景のロケーション”と言われる角力灘(すもうなだ)が広がっている・・・はずだったのだが、あいにくの雨模様の天気の中、濃い霧によって海はもちろん文学館の建物自体もはっきり見えない。しかし、彼の地を訪れた喜びは霧に煙ることはなかった。
この外海地区を含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。江戸時代「島原の乱」の舞台となった原城址や大浦天主堂など12資産がリストアップされた。キリスト教が禁止されていた期間に潜伏した信者らによって育まれた独特の宗教的伝統が評価されたと言う。日本にとっては自然遺産も含めると22件目の世界遺産となった。
本が持つ力
世界文化遺産を構成する資産エリアにある「遠藤周作文学館」は2000年(平成12年)に開館した。遠藤さんが1966年(昭和41年)に刊行した小説『沈黙』は外海地区を想定し「トモギ村」という架空の村を舞台にしている。島原の乱の後、キリシタン禁制の日本にやって来たポルトガル人司祭の日本での日々、悩みと葛藤を通して、遠藤さん自らの宗教観と信仰を描いた代表作である。文学館には『沈黙』の原稿をはじめ蔵書や遺品などおよそ3万点が展示されている。
この文学館に私をいざなってくれたのがその『沈黙』という小説である。
「絵踏」が大きなテーマになっている。いわゆる「隠れキリシタン」を見つけるためにイエス・キリストや聖母マリアが描かれた絵や銅版を踏ませるもので、それを拒否すると拷問や死罪が待っているという残酷なテストだ。
この小説に初めて出会ったのは高校受験に向けた国語の「試験問題集」だった。物語の主役であるポルトガル人司祭ロゴリゴが絵踏に直面するクライマックス場面が問題として引用されていた。最初はどんな本からの引用なのかも知らなかったが、強く心に残るものだった。信徒たちがきびしい迫害を受ける中、“神”は奇跡を起こすわけでもなく“沈黙”を続ける。ロドリゴは「なぜ沈黙するのか?」と問う。嘆く。疑う。しかし彼が踏み絵と向き合った時、絵の中の人は初めて“沈黙”を破り語りかける。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」と・・・。
その後、高校に入学してこの引用文が『沈黙』という小説からのものだと知った。高校最初の夏休み、課題だった読書感想文の題材にはこの本を選んだ。
小説の舞台、濃霧の中の長崎の海岸へひとりの読者を路線バスで連れて行く。初読から40年以上の歳月を経てである。それが一冊の本が持つ力なのだと思う。
今回、遠藤周作さんの『沈黙』はゆかりの地が世界文化遺産に選ばれたことによって再び注目を集めたが、数々の小説たちもまた大切な文化遺産である。
日本からユネスコ世界遺産に選ばれた資産たちとの関連で言えば、姫路城は司馬遼太郎『播磨灘物語』、厳島神社は吉川英治『新・平家物語』、そして富士山は新田次郎『芙蓉の人』が思い浮かぶ。『芙蓉の人』も初めて出会ったのは教科書での引用だった。
夏休みシーズン、さりげないきっかけで日本の文豪たちが遺した名作との縁(えにし)を結んでくれる高校生が、ひとりでも増えてくれることを願う夏である。