日本シリーズに通う日々~ドラゴンズファン至福の黄金期と日本一達成(26)
ナゴヤドーム3塁側内野席に座りながら思った・・・
「一体自分はいつまでここにいるのだろうか」と。ゲームは続く。まもなく日付も変わろうとしていた。
ほとんど毎年のシリーズ出場
落合博満監督がチームを率いた8年間、ドラゴンズは5回も日本シリーズに出場している。セ・リーグ優勝チームとして4度、2位からプレーオフ(現クライマックス・シリーズ)を勝ち抜いて1度、合わせて5回なのだが、それまでのドラゴンズの歴史からすれば、その頻度は大変なことなのだ。
おかげでファンである私たちも、日本シリーズを観戦する機会が激増した。
因縁のロッテと頂上決戦
2010年(平成22年)の日本シリーズの相手は千葉ロッテマリーンズだった。
ついにこの日が来た!
忘れもしない36年前、1974年(昭和49年)、シリーズで苦杯をなめた相手である。あの時はチームリーダー高木守道選手の骨折というハプニングもあったが、今にして思えば、チームもそして私たちファンも、「20年ぶりのリーグ優勝」で満足してしまっていた感がある。
しかし、今回は違う。常勝チームに育ったドラゴンズであり、まして監督はもともとロッテ出身、敵の手の内もわかっているはず。36年前のリベンジだ・・・と自ずから気合いが入った。
はてしなく続くゲーム
しかし、ナゴヤドームでの第1戦を落とすと、何かが狂い始めたのか、第6戦で再び名古屋に帰ってきた時は、2勝3敗と負け越し。ロッテに王手をかけられていた。
11月6日土曜日。この日は母校・愛知県立明和高等学校の同期4人で観戦した。
私がかつてクラスの黒板でドラフト会議指名速報をしていた当時からの仲間であり、日本シリーズ観戦後には、同期の宴会でドラゴンズに祝杯(そう信じていた)をあげる予定、店も予約してあった。
ゲーム開始1時間以上前からスタンドに陣取って、ビールを飲み味噌串かつなどを食べ、盛り上がっていた。ゲームはリードを保って終盤へ。
8回表、セットアッパーの浅尾拓也投手が1点のリードを守りきれず、ゲームは延長戦に入った。延長戦と言っても、そこそこで決着はつくはずと思い、ゲーム後の宴会に備えて追加ビールは控えていたのだが、10回も11回も決着がつかない。12回になっても終わらない。その頃だ、予約していた店を“とりあえず”キャンセルしたのは・・・。
日本シリーズ最長ゲームの思い出
時計の針は23時を回った。球場のボードに、JRの最終電車の時刻が表示され始めた頃、球場全体は興奮と緊張が入り乱れる中、夜が深まって一体このままどうなってしまうのだろうかという心配も混ざった、何とも不思議な空気に包まれていた。
ルールでは、延長15回で決着がつかなければ引き分けである。そして、それが現実のものとなったのは、実に23時54分。日本シリーズ史上初のことであり、5時間43分という試合時間も日本シリーズ最長となった。
もちろん4人とも席を離れず、ゲームセットまで試合を見守った。そして「さて、どうやって家に帰るか?」という実に現実的な問題に直面した。
ドームを出た時は、すでに日付をまたぎ翌日の日曜日になっていた。私は第7戦のチケットも買ってあったから、今夜またここに戻ってくるのだという思いと共に、ドラゴンズの2勝3敗1分となったことから「胴上げを目の前で見ることができないじゃないか」という悲しい事実にも気づいた。
タクシー乗り場は予想通り長蛇の列、稼動数が少ない週末の深夜ということもあって待機するタクシーの台数も少ない。大曽根方面へデッキを渡り、ようやく1台のタクシーに行き当たり、相乗りで帰路についた。
またしてもロッテの前に涙
翌日は幸い休日だったので昼近くまで寝た。ベッドで中日スポーツを読み、今夜のゲームに向けて自分を鼓舞した。
17時前にナゴヤドーム入り。この日も3塁側の内野席で、昨夜よりもグランド近い場所だった。席についてみると、不思議な感覚に襲われた。つい先ほどまでここにいたような、妙な既視感。それはそうだろう、前夜から日付を越えるまで7時間ほどここにいたのだから。
第7戦、ドラゴンズは途中までロッテを6対2とリードした。これで3勝3敗1分になると、規定によって第8戦となる。この8戦のチケットを手に入れるにはどうしたらいいのか、そもそも自分自身、仕事を調整して行くことができるのか、などと考え始めた時、ロッテの猛攻によって逆転を許してしまう。
しかし、9回裏に和田一浩選手の起死回生の3ベースによって再び追いつく。2004年の西武ライオンズ時代にドラゴンズの夢を打ち砕いた彼も、今は頼もしい味方である。
そのまま勝ちきれず、ゲームはまたしても延長戦に入る。こうなると自分の感覚も麻痺してしまい、このゲームが24時間前と同じように15回まで続く錯覚に陥る。しかし、それは錯覚ではなかった。
10回、11回と決着はつかない。ドラゴンズのマウンドでは浅尾拓也投手が華奢な身体を躍動させて頑張っていた。しかし、その浅尾投手にも限界が来たのか、4イニング目となった12回表、ロッテに点をとられて敗戦。ロッテナインの胴上げが始まったのは23時15分だった。
この2日間、ナゴヤドームに滞在していた時間を合計すると、ほぼ14時間になる。
このままでは興奮してとても帰ることができないので、一緒に観戦していた友人とタクシーを飛ばして、深夜までやっている名古屋市昭和区滝子にある居酒屋でクールダウンした。ドラゴンズカレンダーが大切に掲げてある店である。ほとんど仮死状態の自分がいた。
その夜は、いつまでもナゴヤドームの観客席に座り続ける感覚で寝つきが悪かった。
山井から岩瀬へ交代の「なぜ」
落合ドラゴンズの日本シリーズとなれば、誰もが思い出すのが、2007年(平成19年)、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第5戦、ドラゴンズが53年ぶりの日本一を決めた試合である。
完全試合(パーフェクトゲーム)目前だった先発・山井大介投手の岩瀬仁紀投手への交代劇は、プロ野球ファンだけでなく、社会現象として大きな論争テーマになった。
もっとも、筋金入りの竜党の間では、落合采配の是か非かは論外、信頼すべき監督の采配は認める。その上で、なぜ落合監督はあの采配をふるったのか?を論じ合った。
斎藤投手からのサヨナラ3ラン
ある人は、落合選手がドラゴンズに来ての3年目、1989年(平成元年)8月12日のナゴヤ球場での読売ジャイアンツ戦を例に挙げた。
ジャイアンツの斎藤雅樹投手が9回一死まで、あわやノーヒットノーランかというゲームだったが、ドラゴンズ4番の落合選手が、9回裏に20号の逆転サヨナラ3ランを放ち、斎藤投手の夢を打ち砕いたのだった。
結局、斎藤投手はその投手人生において、ノーヒットノーランを達成していない。千載一遇の機会だった。落合監督は、それを打ち砕いた立場として、記録達成への怖さを認識していて、山井を岩瀬に交代させたという分析である。これも一理だろう。
勝ちにいった落合采配
その後になって、もうひとつの解答が目の前にやって来た。
2010年8月18日、ナゴヤドームでのジャイアンツ戦のことだ。ドラゴンズの先発は山井投手。8回まで巨人打線をノーヒットに抑え、3対0で9回表を迎えた、ドラゴンズベンチは動かなかった。9回のマウンドに上がった山井投手は、先頭打者の坂本勇人選手にホームランを打たれ3対1になった。ベンチは山井投手を交代させた。
私はこのゲームを見ながら、2007年の日本シリーズに思いをはせた。
パーフェクトゲームかノーヒットノーランかの違いはあっても、大記録という点では同じ条件である。この坂本の先頭打者ホームランを見せられると、3年前の日本シリーズで続投していた場合のことが想像される。抑えたかもしれない。しかし、打たれたかもしれない。ただ、決して打たれてはいけなかったのである、たとえそれがヒット1本でも。ましてやスコアは1対0。ドラゴンズの悲願、53年ぶりの日本一を達成できるかどうかの一戦だったから。
そして落合監督は“勝ちにいった”のであった。監督として当然のことであった。
日本シリーズでの山井投手から岩瀬投手への交代劇をファンなりに分析すると、それはこの2試合に集約されていると思う。
落合ドラゴンズの8年間は、実に5回のシリーズ出場によって、日本シリーズが持つ様々な局面とドラマを、私たちファンに見せてくれたのだった。(2010年)
【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。