ドラゴンズに帰ってきた三冠男・落合博満さんが監督に就任(24)

ドラゴンズに帰ってきた三冠男・落合博満さんが監督に就任(24)

そのニュースを聞いた時は本当に驚いた。
星野仙一監督に続き、2年間指揮を取った山田久志さんの後任監督に、落合博満さんが決まったのである。秋田出身の山田さんから同じ秋田出身の落合さんへ。同郷のバトンタッチであるが、最初はそんな簡単な言葉で片付けられるようなものではないと思った。

落合さん復帰への驚きと期待

長い間ファンとしてドラゴンズを見守ってきたが、これまでの中日ドラゴンズでは、この人事はありえないことだったように思う。それはきっとファンの気持ちも同じだった。
落合選手はドラゴンズの4番打者ながら、FA宣言をしてチームを去り、その去った先が“宿敵”読売ジャイアンツだった。
ジャイアンツに対するドラゴンズファンのライバル意識は、かなり過激なものがある。「ドラゴンズが勝つだけではダメ。同じ日にジャイアンツが負けてこそ、美味しいビールが飲める」
こう語るファンは多い。すなわち「ドラゴンズファン」=「アンチ巨人」なのである。だから、ジャイアンツの10連覇を阻止した1974年(昭和49年)のセ・リーグ優勝は本当に価値があるものなのだ。そのジャイアンツへのFA移籍である。
ジャイアンツ入りした落合選手はさらに、同率で並んだ天下分け目の一戦「10・8決戦」で、ホームランを含めた猛打によって、ドラゴンズの夢を打ち砕いた選手なのである。
しかし、その落合さんに新監督を依頼した球団の決断を、私たちファンも大いに支持した。私の周囲の熱狂的な竜党たちからも、驚きの声こそあがったものの批判はまったくなく、「この人ならチームを何とかしてくれるのではないか」と期待が盛り上がっていた。

トレードは一切しない!

落合新監督の就任記者会見は、2003年(平成15年)10月8日だった。
くしくも9年前のこの日、それがナゴヤ球場での「10・8決戦」の日であった。不思議な因縁だった。
最初に私たちファンの心を掴んだのは、就任したばかりの落合監督が、
「トレードなど補強は一切しない。今の戦力が10%ずつ力をアップすれば勝てる」と現有戦力で戦うことを宣言したことだ。
この理にかなった姿勢は、実はこれまでプロ野球界ではとられてこなかった。星野仙一監督が、1対4のトレードで、当の落合選手を獲得したように、新体制の場合、得てして大きなトレードや戦力補強があった。
しかし、「現在の戦力を色眼鏡なく見る。その上で戦う」という落合監督の姿勢は新鮮だった。そして、選手たちもそれに見事に応えた。

田尾選手トレードの苦い記憶

日本のプロ野球ファンというのは、トレードをあまり好まないように思う。家族の一員的に選手を愛し、極端な場合では、好きな選手が他球団に移っても応援するというケースもある。
かつて、私自身も、1985年(昭和60年)の田尾安志選手電撃トレードはじめ、数々のトレードを受け止めてきたファンである。もちろん、新たな風は必要だが、慣れ親しんだ風で優勝できるならば、それはそれでファンにとっては歓迎である。「おらがチーム」だからだ。ただ、「本当に現有戦力で大丈夫か?」とファンの誰もが思っていた。

バット名人との縁

時を同じくして、かつて落合選手のバットを作った名人・久保田五十一さんと話をする機会があった。実は、1987年に三冠王バットの秘密という取材でお世話になってから、久保田さんとの交誼は続いていた。
3年間の海外特派員を終えて帰国して以来、毎年秋になると、久保田さんはご自分が岐阜県養老町で収穫した新米を送って下さった。これが本当に美味しいお米なのである。
その秋も新米が届き、その御礼が言いたくて、その夜、久保田さんに電話をしたのだ。
最初にお孫さんが電話に出た。
「おじいちゃん!電話だよ」
しばらくたって久保田さんの元気な声が受話器から届いた。
「もしもし」
「御無沙汰しております。ひょっとしてお休みしていらっしゃったのではないですか?」
「いや、パソコンをやっておりました」
究極の手作りであるバットとパソコン、その組み合わせの妙に一瞬だけ戸惑った。

名人が語る落合さんのバット論

久保田さんは還暦の60歳を迎えていた。そしてちょうど「現代の名工」に選出されたばかりでもあったから、お米の御礼の前に、まずそのお祝いも申し上げた。
こうした御縁が続いているのも、かつての落合選手の取材のお陰、落合さんがいたからこそのことだと久保田さん。まったく同感であり、話題は落合新監督のこととなった。
久保田さんが「現代の名工」に選ばれた時、落合さんはこう語ったそうだ。
「選手の体格や打ち方を見て、その選手に合ったバットを作ってはダメ。注文通りのバットを作ること、それだけ。久保田さんはそれができるからすごい」
その言葉に応えるように、久保田さんは電話でこう語った。
「私が作るバットは『商品』ではない。『道具』なのです。それを教えてくれたのが落合さん。プロの『道具』の真髄を教えてもらった」
久保田さんはこの時、海の向こうで活躍する2人、イチロー選手そして松井秀喜選手のバットを作っていた。名人は名人を知る。一流は一流を知る。そんな単純な言葉にはしたくないような深いつながりだった。
そして監督となった落合さんが、一体どんな野球を見せてくれるのか?その楽しみを語り合いながら野球談議が盛り上がった。

バット名人とそんな会話に花を咲かせていた頃、落合新監督注目のシーズンは、すでに過酷な秋季練習からスタートしていた。それは他球団が驚くほどの質量だった。(2003年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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