開幕11連勝!ドラゴンズ余裕のシーズンVと山崎選手の劇的3ラン(23)
ドラゴンズを応援して半世紀以上の中、最も気楽だったシーズンは1999年(平成11年)であろう。実に開幕11連勝という、夢のような最高に気持ちのいいスタートだった。
成熟した「投手王国」
この年、2期目の星野仙一監督は4年目を迎えていた。
ナゴヤドームに移った初年度の1997年は、まさかの最下位だった。
当時、小学生だった娘は「虫の居所が悪い」という言葉の意味をいち早く覚えた。この頃、毎晩不機嫌だった父親の姿を見ていたからだった。しかし、広いドームに慣れてきた翌1998年は2位に浮上して、私たちファンも期待のシーズンだった。
何といっても、強力な投手陣。先発は、開幕投手をつとめたエース・川上憲伸、左の山本昌、野口茂樹、そこに前年のパ・リーグ最多勝の武田一浩が加わった。中継ぎにはルーキー岩瀬仁紀とサムソン・リーの左投手2人と落合英二の右投手、そして抑えは“韓国の至宝”と呼ばれ星野監督が自らもつけたエースナンバー「20」を与えた宣銅烈(ソンドンヨル)投手。この4人が後半にそれぞれ1イニングずつ投げるだけでも、先発投手は5回を投げきればいいのだから、まさに「投手王国」だった。
福留選手プロ初ヒット
このシーズンの私の最初の観戦は、開幕3戦目の広島東洋カープ戦。ライトスタンドでゲームを見守った。すでに開幕2連勝、優勝への手ごたえを感じすぎるほど感じていたが、このゲームは、もうひとつ記念すべき試合となった。ドラフト1位で日本生命から入団した福留孝介選手が、プロ初安打初打点を記録したのだ。開幕2戦は沈黙していた福留選手だったが、見事な2ベースでプロ野球の第一歩を飾った。スタンドで大きな拍手を送りながら、間違いなく今後のドラゴンズ、そしてプロ野球を背負っていくであろう若者の記念日に立ち会えた幸せを噛み締めていた。
ちなみに、その3年後の2002年9月21日の横浜ベイスターズ戦の観戦では、井端弘和選手のサイクルヒットにも遭遇した。
2014年7月26日には岩瀬仁紀投手の400セーブもスタンドから見守った。
こうしたゲームは、ドラゴンズファンとしては“宝物”に遭遇したみたいな一生自慢できる喜びである。
福留ドラフトの思い出
福留選手は、3年前のドラフト会議でPL学園高校の内野手として、実に7球団から指名された。くじ引きの結果、当時の近鉄バファローズの佐々木恭介監督が引き当てた。「ヨッシャー!」という叫び声は有名である。
その年、ドラゴンズは相思相愛だった福留選手を外すと、次の抽選も外し、結果“外れの外れ”の1位指名となった。それが荒木雅博選手である。後に井端弘和選手と組んでの“アライバ”二遊間として、黄金時代を支えることになる。
福留選手は「希望球団ではない」として、近鉄への入団を拒否、社会人野球の日本生命に進んだ。
福留選手は鹿児島県の出身で、幼き頃に訪れた宮崎県の串間キャンプで、ドラゴンズ立浪和義選手からもらったサインが嬉しくて立浪選手と同じPL学園に進んだという逸話の持ち主。そんな縁もあってドラゴンズを希望球団にしてくれていたのだから、ファンとしては本当に嬉しかった。
そして、その福留選手をフォローし続けたのが星野監督であり、逆指名でのドラフト入団は、縁と努力が成就した、いわば必然的な結果だった。
まだ入団が決まる前、CBCテレビ『サンデードラゴンズ』に出演した星野監督が、背番号1が空いている話をした後に、「孝介!待ってるぞ」と呼びかけた時は、本当に嬉しかった。
ナゴヤドームでのこの観戦ゲームは、10対2で完勝。カープに3連勝して、開幕から最高のスタートを切った。
破竹の開幕11連勝!
4月16日の読売ジャイアンツ戦に6対1で勝ち、開幕からの連勝は「11」まで伸びた。この日は福留選手がプロ入り初ホームランを打ち、勝利に貢献した。
開幕11連勝は、1954年(昭和29年)の西鉄ライオンズと並ぶプロ野球記録である。45年ぶりに記録に並んだのだが、その45年前にライオンズを日本シリーズで破ったのがドラゴンズなのだから、因縁というのは巡りくるものだ。
正直、ファンとしても「負ける気がしない」という思いだった。私は周囲に対し、早々に優勝宣言をしていた。とにかく強かった。
名古屋の街も梅雨入りし、最も蒸し暑い日々が続いた6月10日、ドラゴンズはいったん首位の座を明け渡した。しかし、わずか一日にして返り咲くと、そのまま一度も落ちることなく、優勝したのだった。
起死回生!山崎3ランの感動
しかし、どんなシーズンにも「胸突き八丁」という苦しい時期がある。いくら独走していたとしても、不安はつきまとう。優勝を目前にしながらも、追ってくる読売ジャイアンツの陰を感じていた9月後半、ドラゴンズ史に輝く名場面が誕生した。
それは9月26日、ナゴヤドームでのデーゲーム阪神戦。2対1で終盤に差しかかったゲームは、9回表に落合投手、そして岩瀬投手が打たれ始めたところから暗雲が立ち込める。そして、押さえの宣投手が、阪神の助っ人ジョンソン選手に逆転3ランを浴び、ゲームは2対4と一転して阪神のリードとなった。正直、このゲームは「やられた」と思った。
ところが、逆に2点リードされて迎えた9回裏、山崎武司選手によるサヨナラ逆転3ランが飛び出すのだ。テレビの前にいて、絶叫するアナウンサーの中継を聞きながら、山崎選手以上に万歳をくり返したのが自分だった。
ホームランを打った後、両手を突き上げた山崎選手の喜びのポーズは、その後いったい何回くり返し紹介されてきたことだろう。
この瞬間、1999年のドラゴンズのセ・リーグ優勝は決まったと言っても過言ではない。
ゲームはその年のナゴヤドーム最終戦であり、恒例の挨拶がある。
「日本シリーズでナゴヤドームに戻ってきます」
星野監督の力強い挨拶をファンのすべてが「当然」と受け止めた。
星野監督が神宮の夜空に舞う
4日後に9月30日、神宮球場で星野監督は宙に舞った。
私は報道部のニュース編集長という立場で、その日のニュースを仕切っていた。パブリックビューイングが行われていたナゴヤドームはじめ名古屋市内に取材クルー6班を配置して、その時を待った。
そして立浪和義選手が最後の打球をつかんだ瞬間、報道フロアにいたメンバーで万歳をした。取材先から電話連絡してくるスタッフには、いつもの「お疲れ様」の代わりにまず「おめでとう!」と叫んでいる自分がいた。
ニュースな9月に竜優勝
実はこの年の9月は、大きなニュースが満載だった。
「1999年」と聞いて我々の世代が思い出したのは「ノストラダムスの大予言」である。世界が終わりを迎えると言われた「1999年7月」は、実は旧暦だと9月のことらしいと誰かが口にしていた通り、何ともにぎやかな1か月だった。
岐阜県飛騨地方に大きな被害をもたらした台風の来襲、東海北陸自動車道の崩落、愛知県豊橋市での竜巻被害、海外では台湾大地震、など自然災害も多かった。
そして事件も相次いだ1か月だった。
ドラゴンズが優勝を決めた9月最後の日、TBSの『NEWS23』編集長からは、冒頭ニュース「ドラゴンズ優勝」というラインナップ予定と共に、私に宛てた「優勝おめでとう!」というメッセージ入り項目表が、全国の系列局にFAXで送られた。
ところが、茨城県那珂郡東海村で大変な事故が起きた。午前に起きた核燃料加工施設「JCO」の臨海事故によって、国内で初めて被曝による死者が出る惨事となった。トップニュースはもちろん臨海事故に差し替わった。
前回の優勝、1988年(昭和63年)の時は、昭和天皇ご病気によって、粛々とニュースが進み大騒ぎできなかった。もっと以前の1974年(昭和49年)の優勝は、ミスタージャイアンツ長嶋茂雄選手の引退発表に話題を奪われた。そして、この年も・・・。なぜか目立たない・・・ドラゴンズが背負ったそんな因縁を噛み締めながら、行く9月を見送った。(1999年)
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。