【日めくりドラゴンズ】1986年。中日入団の落合が日本人初1億円プレーヤーに。

【日めくりドラゴンズ】1986年。中日入団の落合が日本人初1億円プレーヤーに。

1986(昭和61)年、クリスマスから一夜明けた12月26日。ロッテからトレードで移籍した落合博満選手が、中日ドラゴンズと契約を結びました。推定年俸は1億3千万円。日本人として初の1億円プレーヤーとなりました。

39歳の青年監督・星野仙一が獲得に動く。

2か月前の10月29日。中日の監督に、燃える男・星野仙一が就任。この年5位に沈んだチームの立て直しに着手します。まずはドラフト会議で、享栄高校の左腕・近藤真一投手を、ヤクルト・阪神・広島・日本ハムとの競合の末に獲得。
さらに12月、ロッテ・落合博満の獲得に乗り出しました。このシーズン5位に沈んだドラゴンズは、チーム打率がリーグワーストの2割4分2厘。ゲーリー・レーシッチが36本、大島康徳が20本の本塁打を放ったものの、3割打者はゼロに終わり、打線のテコ入れが急務でした。

巨人か中日か

東芝府中から1978(昭和53)年のドラフトでロッテに入団した落合は、3年目の1981(昭和56)年に首位打者に輝くと、翌年には初の三冠王を獲得。さらに1985(昭和60)年には2度目の三冠王、1986(昭和61)年には2年連続3度目の三冠王に輝くなど、最も脂の乗った時期と言えました。一方で、ロッテ球団との対立などからトレードが噂され、その相手は巨人という声が挙がっていました。
この件については、星野さんが生前、CBCラジオでこう語っています。
《巨人に獲られたらエライことになってしまう。これはウチが獲るしかないということで、加藤オーナーと中山社長と相談したんです》
こうして中日は、牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂の4選手を放出し、ロッテから落合を獲得。4対1という大トレードが成立しました。

チーム本塁打数はリーグトップに

落合の加入で四番が固定された打線は活気づき、翌年のチーム本塁打数はリーグ最多の168本に増加。仁村徹、彦野利勝といった若い選手の台頭もあり、チームは2位に浮上。落合も、3割3分1厘、28本塁打と期待に応えました。そして翌88年(昭和63年)、チームは6年ぶりのリーグ制覇。落合は、最高出塁率と最多勝利打点のタイトルを獲得するなど勝負強さを見せ、優勝に貢献しました。

伝説のサヨナラ3ラン

1989(平成元)年には、3割2分1厘、40本塁打、116打点で打点王を獲得。8月12日、巨人・斎藤雅樹から放ったサヨナラホームランは、ファンの間では伝説として語り継がれています。
※ラジオ実況
《ボール1。2球目です。一発ホームランがあれば、逆転サヨナラ。
斎藤、第2球を投げた。打った!高いぞ!バック!センター、バック!クロマティ、バック!見上げている!見上げている!落合打った!ホームラン!サヨナラホームラン!逆転3ランホームラン!》(田口豊太郎アナウンサー)
中日での三冠王獲得は叶わなかったものの、7年間の在籍で本塁打王2回、打点王2回。1990(平成2)年には、本塁打・打点の二冠に輝きました。

監督として4度のリーグ優勝

名将としても名を馳せました。2003年オフ、監督として中日に復帰すると、現有戦力の10%アップを掲げて就任1年目でリーグ優勝。その後も指揮を執った8年間で4度のリーグ制覇を成し遂げ、2007(平成19)年には球団史上2度目の日本一にも導くなど、ドラゴンズの黄金時代を築き上げました。
もしもあの時、日本初の1億円プレーヤーが中日ではなく巨人で誕生していたら・・・ドラゴンズの、ひいてはプロ野球の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

※落合博満選手の、中日在籍時(1987-1993)の通算成績、獲得タイトル
打率3割7厘(2970打数913安打)、210本塁打、625打点
本塁打王2回(1990年、1991年)
打点王2回(1989年、1990年)
最多勝利打点1回:1988年(この年限りで公式記録から除外)
最高出塁率4回(1987年、1988年、1990年、1991年)
ベストナイン4回(1988年、1989年、1990年、1991年)

【CBCアナウンサー 榊原悠介
中日ドラゴンズ検定1級。日付からドラゴンズの過去の試合を割り出せる特技を持つ】
毎週水曜日連載。

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