豊臣家滅亡の序章となった大坂冬の陣。徳川家康にとってどんな戦いだったのか?
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。11月22日の放送では、徳川家康・加藤清正・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演。「この日何の日?」コーナーでは大坂の陣について取り上げました。
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この記事をradiko(ラジコ)で聴く命令権は徳川家康に
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1614年11月19日に起こった大坂の陣について。
徳川家康「これは我が徳川方が大坂に攻め入るということじゃな。木津川口の戦いをきっかけに、大坂冬の陣が始まるといった次第じゃ」
加藤清正「ちなみに、我らが普段拠点としている名古屋城も出陣の拠点となったのでございますか?」
徳川軍本隊が、名古屋城から出陣したという意味で拠点となったというのは間違いではなかったようです。
1600年の関ヶ原の戦いに勝った東軍である徳川家康が朝廷から1603年、征夷大将軍に任じられます。将軍になるということは、全ての武士のトップになるということ。どの武将(大名)にとっても、命令権は家康にあるということです。
圧倒的な財力を持っていた豊臣家
しかし、豊臣家はこの時点で驚異の財力を有していました。
この財力を目当てに、関ヶ原で敗れた西軍方で主家(仕える家・主君)を無くした浪人たちが大阪に集まってきていたのです。
家康「その者たちがな、義の心を持って(かつての)主家を盛り立てるとか、仇討ちをしたいとか、平和な世ではなく戦場の世で戦いたい者たちが豊臣家を頼ってきたという状況が背景としてあるわけじゃ」
関ケ原の後、徳川家は数百万石の大名となった一方、豊臣家は20数万石の大名となり、立場は逆転しました。
しかし石高上では徳川家が圧倒したものの、豊臣家には財力という強い武器があり、そこに集まる浪人たちの数は徳川家にとっても脅威でした。
最終的に、豊臣家方には10万人以上の浪人が集まり、その中には後年英雄視されるあの真田幸村もいたのです。
大坂冬の陣の時の加藤清正は?
ただ、徳川家康には、豊臣秀吉の遺言を無視して天下を奪ったという見方がありました。
そのため豊臣家に恩義を感じている者たちは一定数いました。
十吾「ちなみに、この大坂の陣で清正様はいかようにされていたのでござりましょう?」
清正「いかよう?儂はすでに亡くなっておったわ(笑)」
清正が没したのは、大坂の陣以前の1611年8月2日。
『清正記』には、二条城への家康と秀頼の会見の帰路に熱病にかかり、その後容体が悪化して病死したと記されていますが、詳しい死因は諸説あり不明です。
この清正の死は加藤家のその後に大きな影響を与えました。
彼が築いた肥後藩は、後継者問題や細川忠興による細川家への移封などを経て、最終的には大名としての地位を失います。これは、清正のような強力な統治者を失ったことによる政治的弱体化と、関ヶ原の戦い後における加藤家の微妙な立場が影響した結果だと言われています。
ちなみに大坂冬の陣は和議によって終結しましたが、この講和条件がその後の展開に大きく影響しました。講和条件の一つとして、大坂城の二の丸・三の丸を破却し、外堀を埋めることが取り決められました。
しかし、徳川方はこの条件以上の工事(内堀まで埋めるなど)を強行したため、大坂城の防御力は大幅に低下。これにより、翌年の慶長20年(1615年)に再開された「大坂夏の陣」において、豊臣方は裸城同然の状態で戦うこととなり、最終的に滅亡へと追い込まれました。
大坂冬の陣は、豊臣家滅亡への序章となった戦いです。
(葉月智世)
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