石山合戦は約10年も続いた戦い…当時の仏教vs織田信長の戦いの経過は?

400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月11日放送のCBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』では、織田信長・徳川家康・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演。「この日何の日?」コーナーでは「石山合戦」について取り上げました。
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太助「1570年10月11日に起こった石山合戦、浄土真宗本願寺と信長様の戦いにござりまする。拙者は参加しておらんので詳しくは存じませぬが、戦いの名前は存じておりまする」
「○○の戦い(合戦)」と呼ぶようになったのは、実は割と最近のことです。江戸時代は「○○の役」と呼んでいました。
石山合戦は、約10年ほど続いた戦い。戦自体が本格化したのは始まって5~6年ほどたってからでしたが、完全に敵対する関係になるとはっきりしたのが先程の10月11日でした。
本願寺との戦いでしたが、今でも各地に「本願寺」「○○別院」とつく寺院が残っており、名古屋市内では東別院などが有名です。
戦国時代当時は、比叡山と同様に本願寺は一大勢力で信長と敵対していました。
本願寺に手こずった武将たち
本願寺が厄介だった理由は、多くの信徒がいたことです。今でも葬式を浄土真宗系の法要で行う人もたくさんいますが、戦国時代は今よりも宗教と生活のつながりは密でした。
比叡山が戦いに長けた僧兵を多く抱えていたのとは違い、本願寺は各地の信徒や国人が主な戦力だったこと。別名、一向宗とも呼ばれていました。
信長「これらは一向一揆と呼ばれておってな。当時、彼ら信徒は『南無阿弥陀仏』と唱えれば難しいお経を覚えなくても救われる、極楽浄土へ行けるという簡単な教えで、一気に民衆へ広まったんじゃ」
当時は他にも禅宗などがありました。有名なところでは、上杉謙信が幼少期に曹洞宗の林泉寺で仏道修行を積み、後に家督を継いだ後も生涯を通じて毘沙門天を信仰し、「戦・勝利の神」と深く帰依した例などが挙げられます。
本願寺の信徒が武将を手こずらせた理由は死を恐れず「南無阿弥陀仏」と唱えながら歯向かってくること。武力に長けていなくとも、信仰を疑わず一心に戦いに参加した彼らは、ある意味無敵だったのかもしれません。
苦労した武将は信長以外にも…
徳川家康も、三河(現在の愛知県東部)に拠点を持っていましたが、最も手強い相手だったのが一向宗の信徒だったと言われています。
「死しても極楽(死んでも極楽に行ける)」と立ち向かってきた彼らは、負けても行く先は極楽であると一心に信じていました。怖いもの知らずで武将同士の戦いよりも厄介だったとされます。
家康「喜び勇んで戦に挑んでくる彼らは、武将たちとは違ってまるで妖(あやかし)と戦うような感じであったかの」
家康の場合、もっと困った事態に陥りました。家臣の本多正信が三河一向一揆の側に与して対立関係になったこともあります。(のちに家康の下に帰参)
本願寺との戦いは、最終的に本願寺のトップだった顕如や信徒たちが明け渡して退去したことで集結しました。
その本願寺の跡地に建てられたのが、豊臣秀吉の大坂城になります。なお、本願寺は江戸時代になると諸事情から東本願寺派と西本願寺派に分裂(他にも宗派は複数あり)、現在も東本願寺(大谷派)・西本願寺(本願寺派)・仏光寺(仏光寺派)・興正寺(興正寺派)などが残っています。
今とは違う姿を見せていた戦国時代の仏教。苦労した戦国武将は信長・家康以外にも多数おり、当時の勢力の大きさを今に伝えています。
(葉月智世)
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