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阪神・淡路大震災から30年。悲しみと教訓、そして心に刻んだ日々

阪神・淡路大震災から30年。悲しみと教訓、そして心に刻んだ日々

あの日から30年。1月17日、阪神・淡路大震災から30年の節目を迎えました。この日放送のCBCラジオ『つボイノリオの聞けば聞くほど』には、震災で大切な人を失った悲しみ、それぞれの場所での記憶、そして防災への思いを胸に歩んできたリスナーたちの、それぞれの30年の思いが寄せられました。

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成人式の晴れ姿が遺影に

「今年も1月17日が来ました。30年前、私の知人も亡くなりました。今は天国から私たちを見守ってくれていると思います」(Aさん)

Aさんによると、その知人は成人式で名古屋に来て、1月16日の最終便で神戸に戻ったとのこと。翌日ではなく、その日の便で帰ったことが、その後の運命を分けました。

「しばらくして、被害に遭ったと聞いた時のことは今でも忘れません。告別式は涙、涙でした。遺影は成人式のものが使われていました」(Aさん)

「これは泣けるな…気の毒やな」と絶句するつボイ。

人生の門出を祝う晴れ姿が最期の写真となってしまったという現実。
未来への希望に満ちていたはずの若者の人生は、帰郷の一夜ののちに永遠に奪われてしまったのです。

被災地へ、遠回りの救援物資

「嫁さんの実家に引っ越して、新たな勤め先への初出勤の朝でした。揺れの少し前に目が覚め、体験したことのない激しい揺れを感じたことを覚えています。神戸には学生時代の後輩が2人住んでいましたが、共に無事でした。私の中ではこの震災が『ボランティア元年』だった気がします」(Bさん)

「震災から2、3日後、鹿児島への出張がありました。小牧空港から飛ぶ予定でしたが、出発時間になっても飛行機が動きません。『ただいま大震災地域への救助物資を積み込んでおります。もうしばらくお待ちください』とアナウンスが流れました」(Cさん)

小牧空港からなぜ被災地から遠く離れた鹿児島空港へ救援物資を送るのでしょうか?それにはこんな理由がありました。

「聞いたところによると、阪神地区への道路はどこも大渋滞。名古屋ー大阪間の空路はありません。一度鹿児島に送って、そこから通常便のある大阪・伊丹空港へ物資を運ぶということでした」(Cさん)

震災直後から、様々な手段で被災地支援が行われていたようです。

友の分まで歩んだ30年

「当時は春日井在住でした。震災で東灘区に住んでいた高校時代の友人を亡くしました。23歳でした。
友人の分もしっかり生きなければと思って、もう30年。その間に好きなことを仕事にし、結婚してこどもにも恵まれ、その子どもたちの自立も見届けました」(Dさん)

Dさんは昨年、早期退職制度を利用し、現在はセカンドライフを楽しんでいるそうです。

「長い時間、大きな横揺れを感じたことは昨日のことのように覚えています。今は千葉に住んでいますが、夏に名古屋に行く予定があるので、八事霊園に眠る友人を5年ぶりに訪ねようと思います」(Dさん)

日々の暮らしに生きる震災の記憶

「当時は妊娠中で、その後、2人の子育てに追われながらの30年。その間、あちこちで大きな地震があって、ともすれば忘れそうになります。阪神・淡路も東日本も能登半島も、揺れは体験しました」(Eさん)

米原在住のEさんは、いずれの地震でも揺れを経験したそうです。

「家のものは多少割れたりしましたが、大きな被害がなくてすみました。水と紙類と食品は余分に買っておくようにしていますが、こういう時に、気を引き締めたいと思います」(Eさん)

番組にはこの他にも、数多くの声が寄せられました。

あの日から30年。震災の記憶は、人々の中で今も確かに生きています。
(minto)
 

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