どんな食器も、どんな汚れも洗い流す!ニッポンの「食洗機」が越えたハードル
数々の電化製品は、ニッポンの技術によってめざましい進化を遂げてきたが、「食洗機(食器洗い乾燥機)」は、その代表格と言えるかもしれない。海外で誕生したものの、そこには日本独特の食文化という高いハードルが立ちはだかった。しかし、それを乗り越えたアイデアと開発力には、あらためて感嘆してしまう。
最初は木製の手回し式
世界で最初の食洗機は、1860年に米国で発明された。日本はまだ江戸時代である。木製のもので、ハンドルを手で回して、中に入れた皿に水をかけるという単純なものだったと伝えられる。20世紀に入って、ゼネラル・エレクトリック社が、電気で動く食洗機を開発した。日本にも持ち込まれて、1950年代後半から広がり始めたが、レストランなど、大量に皿などを洗う必要がある“飲食店の業務用”だった。
日本最初の「食洗機」は?
そんな「食洗機」に注目したのは、次々と家電製品を製造していた松下電器(現・Panasonic)だった。
「これは家庭のキッチンでも必ず役に立つ」。
業務用ではなく、一般家庭用の食洗機の開発を始め、1960年(昭和35年)に、日本で最初の「電気自動皿洗い機(MR-500)」を発売した。給水、洗浄、すすぎまで、すべて全自動。本体の上にフタが付いた姿は、まるで電気洗濯機のようだった。松下電器は500台生産したが、その大きさも電気洗濯機並みだったため、日本の一般家庭の台所に置くことは、スペース的にも難しかった。また、「お皿を洗うことまで機械にさせていいのか」という、日本人独特の生真面目さもあってか、食洗機の国産第1号は、なかなか受け入れられなかったそうだ。
狭い日本のキッチンに置く
松下電器の開発は続く。狭いキッチンに合うのは、どんな食洗機がいいのだろうか。一般的に、流し台の横には、まな板を置くぐらいのスペースしかなかった。そこに設置するために、内部を二段にするなどの工夫をして、設置面積を小さくした。1986年(昭和61年)に、コンパクト食洗機「キッチン愛妻号」を発売。その成功が、後に卓上食洗機スリムタイプ「これなら置ける」へと、つながっていく。床ではなく、流し台に置くことができる卓上式の食洗機によって、その便利さは一気に注目されるようになった。
日本の食文化のハードル
しかし、越えなければならないハードルがあった。それは、日本独特の食文化、その特殊性だった。日本の食卓には、和食も洋食も、様々な種類の料理が並ぶ。米食のでんぷん、洋食の油分、さらに、お茶の茶渋など、洗い流したい汚れの成分は、多岐にわたっていた。さらに、皿が中心の欧米と違って、日本人が食卓で使う食器は、皿以外にも、茶碗、小鉢、湯のみ、お銚子とお猪口など、形も大きさもバラバラだった。そうした数々の食器の表面に、まんべんなく水をあてて洗わなければならない。
ニッポンならでは工夫
このため、水をあてる方向、水流の勢い、水温などを徹底的に研究した。食洗機の内部に、大小のノズルをつけて、大きい方でストレートに水をあて、小さい方で円を描くように水をあてる工夫をした。水圧も実験をくり返して強くした。汚れの油分は、40度以上で溶け始める。米のでんぷんは、ふやかした上で勢いよく洗い流す。洗剤の効果を高めるため、温水を使うことにして、その温度を70度とした。さらに、でんぷんを分解する酵素(アミラーゼ)と、タンパク質を分解する酵素(プロアテーゼ)を配合した洗剤まで開発した。「水流」「温度」「洗剤」これら3つの力を組み合わせて、日本ならではの食洗機が、大きく歩み出した。
水の量を減らせ!
さらなる、日本らしい開発は「節水」だった。少ない水量で、いかに効率よく、きれいに洗うか、取り付けたセンサーで、食器の容量を認識し、使用する水の量を自動的に調整する。もともと底にあったノズルに加え、背面にもノズルをつけて、必要な水を複数の方向に分散し、吹き出す量を抑える「節水トリプルミスト」の食洗機も開発した。これによって、使う水の量は、手洗いの場合より、6分の1に節約できた。洗った後は、自動で食器を乾燥してくれる装置も加わり、食洗機は「食器洗い乾燥機」となった。
今やキッチンの必需品
ドアもワンタッチで自動に開くことができるようになり、汚れた食器を持った手で、食洗機に触らなくてもよくなった。卓上型に加えて、ビルトインの食洗機も、今やシステムキッチンの重要なパーツとなった。欧米の家庭で使われてきた食洗機は、ニッポンの徹底した細やかな開発技術によって、台所の必需品になった。
「食洗機はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが、“どんな汚れも洗い流す”自慢の洗浄力で、きれいに磨かれている。
【東西南北論説風(447) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。