サンダーバードそしてガンダム!日本のプラモデル史を訪ねる楽しき夢の旅
ゼンマイ仕掛けで動く「ガメラ」人形。深緑色の機体から降りてくるコンテナにも工夫があった「サンダーバード2号」。日本の建築シリーズの到達点だった「宇治平等院鳳凰堂」と「日光陽明門」。胸をときめかせながら組み立てたプラモデルの数々は、今も心に残っている。そんなプラモデルの日本での歴史を訪れる。
「プラモデル」という名前は、実は長い間、日本のメーカーの登録商標だった。そんなプラスチック製の模型は、第二次世界大戦前の1936年(昭和11年)に、英国で生まれた。戦闘機など飛行機を中心に30点ほどのプラスチック模型が発売されたのが、世界で最初と伝えられる。英国では、軍の教育用として飛行機や戦闘車両などのモデルを組み立てていたが、そこに新たな素材としてプラスチックを使うことになった。終戦と共に、プラスチックモデルは米国で大ブームとなる。英国では飛行機が中心だったが、米国では船や自動車なども登場した。
日本では当時、模型のおもちゃといえば、組み立て式は木材、メーカーが作るものはブリキやセルロイドだった。そんな中、ヨーロッパや米国でヒットしているプラスチック製の模型を日本でも作ろうという動きが始まった。1947年(昭和22年)に東京で創業した「マルサン商店」である。セルロイドの人形や双眼鏡などを販売していたが、これからはプラスチック製おもちゃの時代だと、開発に乗り出した。
1958年(昭和33年)12月、マルサンは日本で最初となるプラスチック製の模型を発売した。「原子力潜水艦」「哨戒水雷艇」「飛行機」「車(ダットサンセダン)」の4種類だった。ほとんどは米国製のコピーだったが、自動車のダットサンだけは日本オリジナルだった。この模型たちは、日本国内で大きな人気を集めた。マルサンは「プラモデル」という名前を商標登録したため、以後「プラモデル」と呼べるのは、マルサンのものだけになった。しかし、1968年(昭和43年)にマルサンが倒産。その後「プラモデル」という呼び名は「日本プラスチック工業協同組合」のものとなった。
この国産プラモデルの人気に、他の模型メーカーも黙っていたわけではなかった。「タミヤ」「アオシマ」「イマイ」などが次々と参入した。イマイは、アニメ『鉄人28号』や人形劇『サンダーバード』シリーズで人気を集めた。タミヤやアオシマは、戦車、自動車、航空機、さらにスーパーカーなどに力を入れた。実は、これらのメーカーのいずれもが、静岡県にあった。なぜ静岡に、プラモデルのメーカーが集まっているのか?
2つの理由がある。まず、静岡は、質の高い木材を供給する日本アルプスの山々と川で結ばれている。港は木材の集積地だった。このため木材加工は盛んで、学校の教材などで模型が作られてきた伝統があった。
もうひとつは、徳川幕府に由来する。家康が祀られている久能山東照宮はじめ、徳川家ゆかりの神社仏閣が多く、そのため、全国各地から優秀な宮大工が集められていた。造営の仕事が終わった後も、そのまま当時の駿府に住み続ける職人も多く、そんな彼らは木工の技術を活かして、家具や仏壇、人形などを作って生計を立てた。その技が、模型作りに受け継がれた。例えば、アオシマも、最初は木製の模型飛行機からスタートして、その後プラモデルへと発展させた。今も静岡県は、全国のプラモデル出荷額の4分の3を占める、世界に誇る“プラモデル都市”である。
1980年代に入ると、アニメ『機動戦士ガンダム』のキャラクターをプラモデルにした「ガンプラ」が大ヒットした。店に並べられた直後に売り切れてしまうという一大ブームを巻き起こした。プラモデルは、子どもたちはもちろん、かつて子どもだった大人たちにも愛され続けている。
ものを組み立てていく喜び、そこには子どもも大人も熱中させる魅力がある。「プラモデルはじめて物語」のページでは、日本の文化の歩み、その確かな部品たちが“ひとつひとつ丁寧に”組み立てられている。
【東西南北論説風(410) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。