国産のミルクチョコレート作りにかけた大いなる夢!その誕生の歴史を歩む
チョコレートはカカオ豆から作られる。もともとはアメリカ大陸の先住民族が、カカオ豆を粉末にして溶かし、唐辛子などスパイスを加えて滋養強壮の薬として飲んでいたと伝えられる。16世紀に探検家コロンブスが、カカオ豆をスペインに持ち帰った。砂糖などを加えて固めることによって、ヨーロッパで「チョコレート」という菓子が生まれた。日本には、江戸時代に長崎の出島に、オランダ人によって持ち込まれた。“珍しい食べ物”として、ほとんど食べられることはなかったという。
明治時代の後半、1899年(明治32年)、ひとりの男性が米国から帰国した。森永太一郎(もりなが・たいちろう)さん。11年間にわたって、西洋菓子を学んできた。
「西洋のお菓子を日本に広めることができるのは自分しかいない」
森永さんは、東京の溜池に「森永西洋菓子製造所」を創業した。わずか2坪の工場には、手作りのコークス釜や米国から持ち帰った菓子作りの機械が、ところ狭しと並べられた。当時の日本で、西洋菓子の製造法を習得している日本人はほとんどいなかった。森永さんは、マシュマロ、キャラメル、キャンディー、そしてチョコレートクリームなどを作り始めたが、「西洋菓子」というだけで敬遠され、思ったように菓子は売れなかった。
そんな頃、1903年(明治36年)に大阪で産業博覧会が開催された。初参加の森永さんが出品したチョコレートクリームは高く評価されて3位に入賞した。森永さんは、米国やヨーロッパで人気の菓子「チョコレート」作りに、本格的に乗り出すことにした。当時の日本でも、洋酒を入れ込んだボンボンチョコレートが作られていたが、庶民には手が出ない高級品だった。森永さんが取り組んだのは「板チョコ」だった。
板チョコはスイスの職人が開発し、とても食べやすいチョコレートだった。輸入したビターチョコレートを加工して作り始めたものの、より手軽に購入してもらおうと、大量生産することを考えた。原料のカカオ豆からチョコレートを1か所で作る“一貫製造”のための工場を、巨額の投資によって作ったのだった。現在では「Bean to Bar(ビーントゥバー)」と呼ばれ、米国のクラフトチョコでは主流となっている“一貫製造”を、森永さんは大正時代の日本でスタートしたのだった。
それでも「チョコレートは苦くて食べられない。これはお菓子ではない」など、厳しい声があった当時、森永さんはミルクチョコレートを製造した。19世紀末に、スイスでは粉ミルクを入れる製法が発明されていたが、森永さんもチョコレートにミルクを使用したのだった。
1918年(大正7年)、板チョコの「森永ミルクチョコレート」が誕生した。日本での本格的なチョコレート大量生産が始まった瞬間だった。
チョコレートは庶民の味となった。「栄養のある美味しいお菓子、大人も子どもも、安全で安心して食べることができるチョコレートを作りたい」という森永さんの願い。
「チョコボール」「小枝」「ベイク」など、次々と親しみやすい人気商品が発売された。森永さんの会社、現在の「森永製菓株式会社」である。日本のチョコレート史には、「不二家」「明治」「ロッテ」など次々と、菓子メーカーが加わっていった。また、2000年代にかけて「ゴディバ」「ピエールマルコリーニ」など海外の有名メーカーが日本に上陸。オリジナルのチョコレート開発に乗り出すなど、日本は世界のショコラティエたちが競う、甘くて華麗なステージへと成長した。
森永さんが、創業から6年後に決めたエンゼルマークは、マシュマロが米国で「エンゼルフード(天使の糧)」と呼ばれていたことに由来する。「子どもたちに夢を」という創業時に抱いた森永さんの願いは、数多くのチョコレートと共に今日もしっかりと息づいている。
「チョコレートはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“カカオとミルクの風味豊かに”甘く刻まれている。
【東西南北論説風(405) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。